四日市ぜんそくの原因と症状
調査の結果、原因として疑われたのが亜硫酸ガス。亜硫酸ガスは二酸化硫黄のこと。石炭や石油に含まれる硫黄が燃焼によって酸化すると二酸化硫黄となります。
高濃度の亜硫酸ガスは、植物の枯死や酸性雨の原因となりました。亜硫酸ガスの人体への悪影響の一つがぜんそくです。亜硫酸ガスを吸い込むと、気管支炎や気管支ぜんそく、咽喉頭炎などの呼吸器系の病気の原因となりました。
工場排煙を日常的に吸い込む近隣住民はぜんそくの症状に苦しみます。ぜんそくになると呼吸困難や発作性の激しい咳やたん、胸の痛みや動悸・息切れなどの症状が現れ、患者を苦しめました。中には症状のつらさから自殺する人もでるなど事態は深刻化していきました。
四日市ぜんそくをめぐる裁判
1967年9月、もっとも被害が深刻な磯津地区の住民9名が原告となって四日市第一コンビナートで操業する中部電力三重火力、昭和四日市石油、三菱油化、三菱化成、三菱モンサント化成、石原産業の6社に対し損害賠償を求める裁判を起こしました。
津地方裁判所四日市支部は1972年7月に判決を下します。判決では被告企業6社に共同不法行為を認めあわせて8800万円余の賠償を命じました。裁判所は四日市の公害は予測可能なもので、当時最高水準の技術を用いても防止に努めるべきであったとし、被告企業の過失を認めます。被告企業は控訴を断念。原告の勝訴で判決が確定しました。
裁判の原告の一人で2019年に亡くなった野田之一さんは、勝訴の知らせを聞いたとき「青空が四日市に戻った時に『ありがとう』と言いたい」とコメントします。判決を受けて行政も責任を認め、三重県知事と四日市市長が被害地域の住民に謝罪しました。
四日市公害に対する行政や企業の取り組み
四日市ぜんそくをめぐる裁判で原告が勝訴したことにより、国や自治体による公害防止対策が進展しました。被告企業は公害防止策をとることを義務付けられ脱硫装置の設置などを行います。また、公害問題など高度経済成長のひずみが表面化したことにより、東京・京都・大阪などの大都市で革新自治体が誕生しました。
企業による公害防止対策
四日市ぜんそくの裁判が始まる前、企業が行った対策は工場の煙突を高くすることでした。このことにより、亜硫酸ガスを拡散することで濃度を薄めようとします。
原料の石油についても見直しました。亜硫酸ガス発生の原因である硫黄分が少ない原油を使用することでぜんそくなどの健康被害を抑えようとします。1970年代に入ると排煙脱硫装置の性能が飛躍的に高まりました。これらの対策により、二酸化硫黄の発生量が抑えられるようになります。
1973年に三重県が条例で四日市市の16工場に対し汚染物質の観測機器を設置することを義務化。詳細なデータを県に提出するよう求めます。また、裁判開始後の1968年以降、石油化学コンビナートの企業は地域住民と公害防止協定を締結するようになりました。
国や四日市市による公害対策の取り組み
1960年代、国は徐々に公害防止対策に乗り出します。1966年、工場などからの排煙を規制するばい煙規制法が制定されました。1967年には公害に対する抜本的な対策をとるため、公害対策基本法が制定されます。この法律では、公害の定義や企業や政府、地方自治体の公害防止についての責務、住民の公害防止施策への協力義務、環境基準の設定、公害発生源の規制など公害に関する幅広い取り決めがなされました。
1968年にはばい煙規制法をさらに強化した大気汚染防止法、1972年には大気汚染総量規制が決められ、国による公害対策が強化されます。1971年には環境問題を管轄する環境庁が新設されました。
他方、四日市市も1964年に独自に公害患者への治療費負担制度を創設します。四日市市の取り組みは国の対策にも影響を与えました。
公害問題の影響で全国各地に革新自治体が生まれた
高度経済成長によるひずみは公害という形で全国各地に現れていました。熊本県の水俣病、新潟県の新潟水俣病、富山県のイタイイタイ病など各地で公害が発生。公害病の被害に遭った人々が企業を訴える裁判が全国各地で起こされました。
高度経済成長で人口が集中した東京・大阪などでは住宅や病院などの生活インフラが追い付かず、住民の不満が高まります。自民党などの保守政党への批判から社会党や共産党の支持が高まりました。
1967年の第6回統一地方選挙では東京都知事に革新系の美濃部良吉が当選。各地で革新系候補が保守系候補を破ることで革新自治体が全国で増えます。革新系候補が勝利した自治体では公害規制条例の制定や高齢者への地下鉄無料券の配布、高齢者医療の無料化などの施策が実行されました。