日本の歴史

日本語が歴史的に成立したのはいつ頃?

私たちの使っている日本語がいつ成立したのかについては明らかになっていません。6世紀以前、大和朝廷の今の天皇家が生まれた3世紀には成立していたと言われています。しかし、邪馬台国の卑弥呼が中国の魏に使わした使者がどのような言葉を話していたかはわからないのです。 日本語がいつ頃成立したのかについて解説します。

日本語は歴史的にいつ成立したのは4世紀ころ

image by PIXTA / 18571224

現在の日本語が使われ出した時期については、正式にはわかっていません。考古学者や歴史学者は、あたかも弥生時代や縄文時代まで日本語が使われていたかのように言っています。しかし、とてもそんなことはあり得ません。縄文時代の日本列島にいたのは、現在のような単一民族と言っていい状態ではなく、いくつかの民族が住んでいたからです。

実際に日本語として成立したのは、4世紀ころと考えられます。時代に沿って日本語がどのような歴史をたどって成立したのかを見ていきましょう。

 

縄文時代には歴史的に日本語まだ形成されていなかった

image by iStockphoto

縄文時代前半は、暖かい温暖な気候で海水面は今よりも高く、その当時の有名な遺跡として知られる三内丸山遺跡は、当時は海辺にあったのですが、現在ではかなり内陸にあります。この三内丸山遺跡にいた人たちはどのような人だったのかははっきりとわかっていません。縄文時代の遺跡は全国に広がっていますが、この縄文人が現在の日本人のように単一民族であったわけではないのです。

氷河期末期まではオホーツク海や津軽海峡は凍っていて、ユーラシア大陸の北方に住んでいた人たちが獲物になるマンモスなどの大型の動物を追ってこの日本列島に来ていました。また、同じ種族はベーリング海を越えてアメリカ大陸に移動して、南北アメリカの原住民になったと考えられています。

一方、氷河期には海水面が下がり、東南アジアや台湾などから南方の人たちも島伝いにこの日本列島に来ていました。さらには、今の中国北部からも日本海を渡ってこの日本列島に人々が来ていたのです。中国北部の遺跡の石器と共通のものが日本列島でも見つかっています。

氷河期が終わって取り残された人々が縄文人

氷河期が終わり、世界が温暖化する中で、海水面は上昇し、多くの人々がこの日本列島に取り残され、縄文時代を形成しました。しかし、当時の日本列島は、原始林におおわれ、現在のように道路があったわけではありません。けものみちがあるだけでした。その中で、出身も言葉も違っていた人々が、互いに交流することはなかったのです。縄文時代の人口は最大時でも26万人程度と言われており、人口密度は非常に小さく、集落が隣接するということはほとんどなく、接触する機会はほとんどありませんでした。

当時、集落同士は遠く離れており、しかも道もないことから、交通手段は船しかなかったのです。縄文時代には、当時の精密な石器の材料になるガラスに似た黒曜石が、産地からかなり離れた場所でも発見されています。八丈島産の黒曜石が、関東や東北地方で見つかっているのです。このことから、集落間の交易があったことは伺えます。しかし、古代の人々が簡単に船をあやつって遠くまで行けるわけはありません。それであれば、彼らは元居た場所に帰れたはずです。

日本列島には統一された縄文民族はなく、日本語は成立していなかった

image by iStockphoto

すなわち、縄文時代には、各集落を回る海人族(あまぞく)が存在し、彼らはいくつもの言葉を操っていろいろなものの交易の仲介をしていたと考えられます。

逆に物資の交流を彼らに依存した縄文時代の人々は、他の集落との交流はよほど近くの人々を除いてはおこなわれていなかったのです。そのような状況の中で、共通の日本語が存在したことはあり得ないことでした。

最近までも、考古学者などは、縄文時代の人々の遺骨からDNAを調べて縄文人は中国大陸が起源だ、南方が起源だと主張しています。しかし、当時の縄文人が単一民族だったとは考えられません。調べた地域の人々のDNAによってそこの人々の出自はわかりますが、それをすべての縄文人に当てはめるのは無理があるのです。

したがって、縄文時代には共通の日本語があったとは考えられません

縄文時代は温暖期も寒冷期も平和な社会だった

統一性のない縄文時代末期の人口は10万人を切り、8万人弱程度と言われています。縄文時代中期から次第に人口は減り始めたのです。

今から4,500百年くらい前から、それまで温暖だった日本列島は、寒冷化の時代を迎えました。海水面は再び後退し、植物の植生(しょくせい、主に生息する植物の種類)は大きく変わっています。そのために、縄文時代中期まで東北などに多かった縄文集落は少なくなり、西日本に縄文集落の中心は移っていったのです。寒冷化もあって生きられる環境は少なくなり、人口は減少していきました。

しかし、縄文時代の最大の特徴は戦争などの後がほとんど見られないことです。非常に平和な時代だったと言えます。寒冷化した中でも、領土争いなどはなかったのです。すなわち、武力で統一するということもなかったと言え、それゆえ縄文人の言葉の統一はありませんでした。

歴史的に弥生時代には日本語は形成されたのか

image by PIXTA / 15492293

弥生時代には日本語は形成されていたのでしょうか。これもかなり難しいと言わざるを得ません。

縄文時代と弥生時代の境目は現在ではあいまいになっています。かつては、弥生時代の始まりは、紀元前3~4世紀ころと言われていました。しかし、現代では、弥生文化の特徴である水稲(水田稲作)が伝えられたのは、今では紀元前1,000年前と言われているのです。約600年くらい前まで遡ることが明らかになっています。

この当時は、中国大陸では、寒冷化によって黄河流域の牧畜民たちが長江流域の稲作民の地域に移動し、倭族と呼ばれた稲作民や漁労民は遼東半島や朝鮮半島南部、九州北部に移動していました。

難民化した倭族の大移動が朝鮮半島や日本列島に大きな変化をもたらしたのです。すなわち、日本列島には水稲弥生式土器が伝わり、従来の縄文人と融合していくことで、弥生文化が成立したと言えます。

弥生時代に日本列島に移ってきた倭族の言葉と縄文人の言葉は違った

縄文人自身に共通の言葉がなかったところに、言葉の違う大陸の倭族が入ってきたことで、少しずつ日本語が形成された可能性はあります。倭族の言葉は、古代中国語に近かったと考えられ、それも現在の広東語に近かったでしょう。

ただし、弥生時代には、九州文化圏と近畿文化圏でかなりの違いが見られ、さらに出雲にはまた違った別の文化圏としての王国があった可能性が強いのです。したがって、言葉は共通ではなく、統一された日本語はまだ形成されていなかった可能性が高いと言えます。

弥生時代の人口は59万人程度まで膨れ上がったと言われ、急激な増加が見られるのです。その中で、縄文時代末期の日本列島の人口は、8万人を切っていたと言われており、7~8倍の人口に増えています。いくら、豊かになったとは言え、8万人が数百年で7倍以上まで増加することは考えにくいことです。すなわち、当時の倭族の移住が相当に多かったことを示しています。逆に言えば、人口の少ない縄文人の言葉が日本語になったとは考えにくいとも言えるのです。

中国の古代の人口崩壊と言われる現象では、1千万人以上の人口が減少していました。日本列島に何十万人かが移住してきてもおかしくはないのです。

次のページを読む
1 2 3
Share: