- 百年戦争の背景となったイングランド王家とフランス王家の関係
- イングランド王家は、フランス王家よりも強大なのフランス王の臣下だった
- プランタジネット家とカペー家の争い
- フランドル地方やギエンヌ(ギュイエンヌ)地方をめぐるイングランドとフランスの争い
- 百年戦争の経過を4つのパートに分けて解説
- イングランド軍の侵入開始と黒太子エドワードの大活躍
- ペスト大流行。イングランドとフランスでは大農民反乱がおきた
- イングランドで王位をめぐる内乱が勃発し、ランカスター朝が成立
- フランスに現れた聖女ジャンヌ=ダルクの活躍
- 百年戦争がイングランドとフランス両国にもたらした影響とは
- 貴族や騎士(封建諸侯)が弱体化し、王権が強化された
- フランスはイングランド勢力をほぼ追い出し、ヴァロワ朝の王権が確立した
- イングランドではバラ戦争が起き、テューダー朝が成立した
- 百年戦争が終結した1453年は中世の終わりを象徴する年となった
この記事の目次
百年戦争の背景となったイングランド王家とフランス王家の関係
百年戦争を引き起こしたイングランド王家とフランス王家は、複雑に絡み合っていました。イングランド王は、フランスにおいてはフランス王の臣下で、かつ、フランス領内の大貴族です。フランス王は、強大な力を持つイングランド王家が所有する領地を奪い取ることで中央集権を図ろうとしました。百年戦争の背景となったイングランド王家とフランス王家の関係についてまとめます。
イングランド王家は、フランス王家よりも強大なのフランス王の臣下だった
10世紀後半、当時フランスを支配していた西フランク王国は海を渡って攻めてくるノルマン人たちの侵入に苦しんでいました。911年、西フランク王はノルマン人のリーダーであるロロにキリスト教徒への改宗を条件としてセーヌ川下流の定住を承認。ロロがこの地に建てた国をノルマンディー公国といいます。
ノルマンディー公はフランス王の臣下でした。1066年、ノルマンディー公ウィリアムはイングランドに侵入し、アングロ=サクソン人の王朝を滅ぼしてイングランド王となりました。ウィリアムがイングランドに開いた王朝をノルマン朝といいます。
こうして、ウィリアムはイングランド王とノルマンディー公を兼任しました。フランス王からすれば、ノルマンディー公は自分の臣下ではありますが、イングランド王でもあるのでそう簡単に命令することができない相手です。その意味で、イングランド王はとても厄介な存在でした。
プランタジネット家とカペー家の争い
1154年、ノルマン朝の内紛を制してイングランド王に即位したのがフランスのアンジュー伯だったヘンリ2世です。アンジュー家の紋章が「えにしだ」という植物で、えにしだのラテン語名が「プランタ=ゲニスタ」ということから、アンジュー家の王朝をプランタジネット朝と呼ぶようになりました。
プランタジネット朝はイングランドに加えてフランスの半分を所有する強大な王朝となります。フランス王家だったカペー朝はプランタジネット朝の力を削ぐことに全力を尽くしました。
カペー朝のフィリップ2世はイングランド王のジョンを挑発し戦いに持ち込みます。1214年、フィリップ2世はブーヴィーヌの戦いでジョン王を撃破。その結果、プランタジネット朝の領土は大きく削られてしまいました。戦いに敗れたプランタジネット朝は失地回復の機会を狙います。
フランドル地方やギエンヌ(ギュイエンヌ)地方をめぐるイングランドとフランスの争い
イングランド王家とフランス王家が特に領有にこだわって対立した地域が二つあります。一つは現在のベルギーからフランス北部にあたるフランドル地方です。
フランドル地方は羊毛を原材料とする毛織物産業の一大拠点でした。フランドル地方の中心都市であるブリュージュなどはイングランドから羊毛を輸入することで毛織物産業を発達させます。イングランドもフランスもこの豊かな地方の領有を狙いました。
もう一つはボルドーを中心とするギエンヌ(ギュイエンヌ)地方(アキテーヌ地方)です。この地の特産物はブドウとワイン。こちらも非常に豊かな地域で、イングランドとフランスの係争地となります。百年戦争の前から、フランドル地方やギエンヌ地方をめぐる争いは起きていて、百年戦争の大きな原因だったことは間違いないでしょう。
百年戦争の経過を4つのパートに分けて解説
百年戦争は1339年から1453年にわたった長期間の戦争です。といっても、その間、ずっと戦争が続いたわけではありませんでした。イングランドとフランスは100年以上にわたって、断続的に戦いをつづけたというのが百年戦争の実際の姿です。ここでは、百年戦争を4つのパートに分けて分析。4つの時期ごとの特徴をまとめます。
イングランド軍の侵入開始と黒太子エドワードの大活躍
カペー朝を強大なものとしたフィリップ4世が1314年に死ぬと、彼の息子たちがフランス王に即位します。しかし、いずれも短命で1328年にシャルル4世が死ぬとカペー朝が断絶してしまいました。
フランスの議会にあたる三部会は、カペー朝の血筋を受け継ぐ候補者の中からヴァロワ家のフィリップ6世をフランス国王に選出します。しかし、イングランド王のエドワード3世が、フィリップ4世の孫であることを理由にフランス王位を要求。1339年にイングランド軍が北フランスに侵入して百年戦争が始まりました。
中世で最も強力とされたのが重装騎兵による突撃です。しかし、イングランド軍は長弓(ロングボウ)隊を編成して騎士たちを圧倒し、クレシーの戦いでフランス軍に大勝。さらに、1356年のポワティエの戦いではエドワード3世の子である黒太子エドワードが大活躍し、圧倒的多数のフランス騎士たちを撃破します。ちなみに、黒太子の由来はエドワードの鎧が黒だったからでした。
ペスト大流行。イングランドとフランスでは大農民反乱がおきた
百年戦争の前半戦はイングランド軍の優勢で推移します。しかし、1340年代にペストがヨーロッパ中で大流行。イングランドとフランスでも多数の死者が出ました。ペストのピークは1348年。この時のペスト大流行でヨーロッパの全人口の3分の1が死亡したといいます。
貴族たちは少なくなった農民からさらに税を取り立てようとしたため、各地で農民反乱がおきました。1358年5月、フランスの北東部の農民たちが大反乱を起こし、貴族たちの館を襲撃します。この農民反乱をジャックリーの乱といいました。
また、イギリスではプランタジネット朝が課す重税に反発が強まります。農民たちはワット=タイラーを指導者として反乱に立ち上がりました。これがワット=タイラーの乱です。イングランドもフランスも農民反乱鎮圧に忙殺され百年戦争に全力を投入できず、戦争は長期化しました。
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