日本の歴史飛鳥時代

日本初の歴史書「日本書紀」の神代は謎に満ちている!何が書かれているか解説

日本書紀による出雲の国譲り伝説と天孫降臨伝説の矛盾の謎

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日本書紀では、天照大神と高皇産霊神(たかみむすび)神は、いろいろな神様を出雲の国に派遣しています。この大国主が作り上げた出雲の国を、天照大神の息子である天忍穂耳命(あめのおしほみみ)に譲るように仕向けさせたのです。しかし、うまくいかず、結局、最後に武神である建御雷(たけみかづち)神を派遣し、武力に訴えて大国主に国譲りを承諾させたとあります。

この日本列島の支配者が、簡単に国を譲ること自体が謎ですが、もっと不思議なことがあるのです。実際に天孫降臨したのは天忍穂耳命の子供の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)であり、しかも降臨したところは出雲とは関係のない九州の高千穂の峰でした。考古学上、九州と出雲は明らかに文化圏が違っており、なぜ国譲りさせたにも関わらず、天孫降臨したのが、別の場所だったのか、大きな謎なのです。

天照大神の天孫族(てんそんぞく)は中国の倭族だったのか

日本は、中国の歴史書によれば、倭国と呼ばれていました。倭という民族は、もともと長江の下流域にいた民族が、黄河流域の民族が南下したによって、朝鮮半島南部や北九州に稲作とともに流れ着いたと言われています。この倭族によって、日本列島に水稲の稲作文明、すなわち、弥生文化がもたらされたと言われているのです。

そして、北九州と朝鮮半島南部の倭族は、別々に発展し、中国で前漢が滅んだことで、中国の人々が朝鮮半島に押し寄せたことで混乱が生じます。その影響で、朝鮮半島南部の倭族はさらに移動を余儀なくされた可能性が大きいのです。それが天孫降臨神話として残った可能性があります。実際に、中国の人口は、前漢崩壊時に6千万人から2千万人まで人口が減少しているのです。

天孫降臨には饒速日(にぎはやひ)の別伝説もある

この朝鮮半島南部の倭族の移動は、一つではなく、いろいろなコースがあったと考えられます。天孫降臨神話もその中の一つではないかと言われているのです。物部氏が持っていたとされる先代旧事本紀という歴史書には天孫降臨したのは、饒速日(にぎはやひ)命と書かれています。この饒速日命は出雲に降臨し、大和に移動した可能性があるのではないかとも考えられるのです。日本書紀には、神武天皇(いわれひこ)が日向から東征した時にはすでに大和にいたことになっています。ちなみにニギハヤヒの名前は、スタジオジブリの「千と千尋の神隠し」に出てくるなじみの名前ですね。

出雲族は縄文人最後の文明だったかも?

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出雲の人々はどのような人々だったのかも、大きな謎です。日本列島を支配するほどの大きな国がなぜ国譲りを承諾したのでしょうか。一説には、出雲族は最後の縄文文明の人々だったのではないかという説があります。ただ、これも疑問です。出雲には、稲作の刈り入れが終わった後の10月に神様たちが集まったとされます。しかし、稲作文明は、弥生文化の象徴であり、出雲の人々が縄文人であったとは考えにくいのです。結局、出雲という国はどのような人々が住んでいたのか、大きな謎のままになっています。

大国主命には多くの別名がある謎

大国主には、さまざまな名前があったと日本書紀にも書かれています。大己貴(おおあなむち)、八千矛神(やちほこのかみ)、大物主神、大国玉神、葦原醜男(あしはらしこお)などです。そのため、大国主は一人ではなく、歴代の多くの指導者を表しているのではないかという説もあります。大きな謎なのです。

また、大物主は大和に入り、初期の大和朝廷で祀られていました。大物主は大和の三輪山に祀られており、今でも大三輪神社として有名です。なぜ、出雲の神が大和朝廷で祀られていたかも大きな謎と言えます。

倭族と言われた人々と日本書紀にある高天原の関わり

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朝鮮半島南部にいた倭族の移動が、天孫降臨神話に描かれているという説もあります。それも実際には多くの移動例があったと考えられ、その中で邇邇芸命と饒速日の物語だけが残ったと言えるでしょう。従って、考古学的には、高天原は、朝鮮半島南部にあったと考えられますが、それを明確に証明できる遺跡などは見つかっていません。

しかし、大和の巻向で見つかった、3世紀初期の高床式建物跡などはいきなり近くの唐古・鍵遺跡の弥生文化の中に現れています。大きな勢力が大和に入ったことを示しているのです。それまでの大和盆地の人口は10万人もおらず、とても大規模な建物を建てることは考えられません。古事記には、巻向にある大規模前方後円墳である箸墓は、昼は人間が、夜は神が作ったと書かれています。異民族と土地の人々が共同で作ったことが伺えられるのです。巻向遺跡は卑弥呼の邪馬台国と関連付けて報道されることが多いのですが、実際には民族移動の証拠と見たほうがよいと言えます。

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