室町時代戦国時代日本の歴史

前代未聞の鼻毛の殿様・前田利常が鼻毛を伸ばした理由

加賀ルネサンスを花開かせた利常

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家督を長男に譲り隠居した利常は、加賀に京風の文化を取り入れることに尽力し、それが絢爛豪華をきわめた「加賀ルネサンス」として花開きます。その一方で内政にも力を注ぎ、「政治は一加賀、二土佐」と呼ばれ、土佐藩と並び称されるほどの成熟した支配体制を築きました。鼻毛の殿様は、ただうつけていたわけではなかったのです。

隠居するも孫のために復帰

寛永16(1639)年、将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の制止もきかずに隠居した利常ですが、跡を継いだ長男・光高が急死してしまい、幼い孫・綱紀(つなのり)のために後見人として復帰します。

利常は農業や治水などの政策に力を入れました。かつて加賀は、支配権力へ抵抗する浄土真宗本願寺派による一向一揆(いっこういっき)の舞台となり、前田家は一向一揆を鎮圧する側となりました。そのため、農民たちは貧困をきわめ、前田家を良く思わない者たちの中には年貢を納めることを拒否する者もいたのです。こうした人々への懐柔策として、利常は借金帳消しや貸し付け、農村制度の改革などを行い、武士と農民の間が円滑に運ぶようにしたんですよ。

また、孫・綱紀のためにと、戦国時代を知る老臣を仕えさせ、武士としての気概を忘れないようにとの心配りも忘れませんでした。

なんと上皇と仲良し!加賀ルネサンスのきっかけ

幕府ににらまれていると自覚していた利常は、加賀藩の莫大な富を、軍事面ではなく文化の成熟に使うことにしました。これが加賀百万石の絢爛豪華な文化「加賀ルネサンス」を生むことになったのです。

実は、利常は後水尾院(ごみずのおいん)とは妻同士が姉妹ということで、義兄弟の仲でした。このこともあり、院とは仲が良かったそうなんです。そのため、京風の文化が加賀に導入され、名茶器や彫金(ちょうきん)、蒔絵(まきえ)などの技術がもたらされ、加賀はさながら全盛時代の京都のように優雅な文化で栄えることになったんですよ。

実は野心も忘れていなかった?息子への小言

富は文化や内政に使い、幕府からの目を逸らそうとつとめた利常。ただその一方で、戦国の生き残りらしい野心は内に秘めていたという逸話が残されています。

息子・光高が生きていたころ、彼が徳川家康を祀る東照宮を金沢城内に建てました。利常は、東照宮造営の許可を出した幕府にはお礼をいいましたが、後で光高には「若気の至りとはいえ、何と言うことをしてくれたのか!もし徳川が衰えることがあったら、この東照宮をいったいどうするつもりなのだ」と小言を言ったそうです。

 

こういう逸話を見ると、やはり利常はただのうつけ者ではなかったことがわかりますよね。

「微妙」なさじ加減がミソ!時代を泳ぎ切った利常

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表面上はうつけを演じきった利常は、万治元(1658)年に66歳で亡くなりました。戒名から「微妙公」と呼ばれる彼ですが、決して悪い意味ではなく、微妙なさじ加減でうつけを演じて幕府との緊張をほぐし、江戸時代初期の微妙な時期を上手に乗り切ったというわけです。

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