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戦国時代のきっかけに!対立構造が複雑な【応仁の乱】をわかりやすく解説

応仁の乱の終戦とその後

応仁の乱は越前において朝倉家が東軍に寝返ったことによって再び東軍が有利になります。

これでようやく終わるかに見えましたが結局戦は終わる気配はありませんでした。
1472年に入るともうなんのために戦ったのかよくわからなくなった勝元と宗全の間に仲直りの兆しが生まれ交渉に突入しましたが、赤松家や畠山家の反対でこの和睦の案はなしとなってしまいまいます。

そして何の進歩もないまま1473年に義政が将軍職を足利義尚に譲り、さらに総大将の2人が相次いで死去したことを受け再び交渉が始まりついに和睦が成立しました。しかし、まだ目的を果たしていない大内や畠山などはまだ戦っており、完全に戦が終わったのは和睦が成立してから4年後という大変後味が悪い終戦でもありました。

応仁の乱の影響 戦国の突入

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応仁の乱によって京都は焼け果て、そして守護大名はどんどん疲弊していってしまいました。これによって守護大名の権威が落ちていくことになり、そのかわり応仁の乱の時に京都に行ってた守護大名の領国経営をしていた守護代が守護大名を追い落として下剋上という形で戦国大名になっていくことになるのです。

そしてその応仁の乱の後室町幕府の権威も失墜してしまい、最終的には室町幕府の政治を行う場所である京都の花の御所にすら入れないような将軍も誕生していくことになっていくのでした。

応仁の乱の教訓を考えてみよう

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応仁の乱は守護大名や将軍の家督争いが発端になったこともあって、これから先幕府や大名たちはできるだけきっちりと跡目を絞らなければ大乱が起こるということを教えてくれた乱でもありました。これから先戦国大名はそんな家督争いをなくそうと努力をしていくのですが、これから先戦国時代を勉強することがあればこんなところにも着目すれば面白く感じるかもしれません。

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