新しいものに目がなく、偏見のない男だった
信長は、積極的に新しいものを取り入れた戦国武将でした。
鉄砲などはその代表格ですが、信長はとにかく異国の文化に興味津々だったんです。それだけでなく、未知の物に偏見を示すことなく受け入れたという点では、とても度量の広い部分があったのかなと思います。
南蛮文化に興味を持ち、キリスト教宣教師を受け入れるなど寛容だった信長。
それ以上に驚かされるのが、黒人奴隷を配下に加えたことです。
黒人奴隷を家臣に取り立てる
宣教師たちの国であるヨーロッパから連れてこられたと思しき黒人奴隷のひとりに信長は興味を示し、黒い肌を見て「そんなはずはあるまい」と洗わせ、それでも皮膚が黒いことからようやく納得したというエピソードがあります。
それだけでなく、彼を家臣に迎え、「弥助」という名前を与えて武士の待遇にしたというのですから、信長がいかに偏見のない人物だったからおわかりいただけるでしょう。当時の一般的な感覚だったら、当然、受け入れられるはずもなかったはずです。
こうした突拍子もないところが信長の良い点でもありましたが、それが時に家臣や敵に対する苛烈な仕打ちにもつながりました。
彼やその後に天下を取った秀吉の下では息を詰めているしかなかった武将がいたことも事実。そうした戦国武将と、戦国時代に彼らの世渡り術が伝わるエピソードを、次からご紹介しますね。
忍耐・忍耐・忍耐の人、徳川家康
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」で知られる徳川家康。まさに忍耐の人ですよね。あの織田信長のそばでじっと耐え、豊臣秀吉の下でも我慢を重ね、天下を手に入れた時にはすでに老齢でした。
彼が戦国時代を生き抜いてこられた秘訣は、その趣味にもあったようですよ。さて、どんなものだったのでしょうか。
趣味の漢方薬づくりは、プロ並みの知識を持ち合わせていた
家康は健康にとても気を遣っていた戦国武将でした。麦飯など質素な食事を好み、鷹狩りをしばしば行って積極的に体を動かすなど、お手本のようなライフスタイルだったそうです。その割にはお腹が出ているんですけれどね。
中でも家康が没頭した趣味が、薬づくりでした。この時点で相当な健康オタクですよね。
どんな感じだったのかというと、自分で漢方薬を調合して服用していたということなのです。家康が愛用した薬箱や、薬をすりつぶすのに使った薬研(やげん)が残されているんですよ。ただ、一方で薬に詳しすぎて侍医の言うことに耳を貸さなかったという一面もあったようです。
健康オタクだったのは、いつか回ってくる天下のため?
織田信長(享年49)や豊臣秀吉(享年62)に比べて、家康は73歳まで生きました。これは、当時としては長命な方です。
おそらく家康は、健康で長生きしていれば、いつか天下が自分に回ってくると確信していたのかもしれません。すべて計算づくの上での趣味だったとしたら、家康は相当な切れ者ですね。
天下は取れずとも、生き抜くための世渡り:伊達政宗
伊達政宗が戦国武将として致命的だったのは、生まれてくるのが少し遅かったことです。信長・秀吉・家康の三強から大きく遅れて生まれてきたために、天下取りの争いに加わることができませんでした。
しかし、政宗という男はどこまでも油断のならない戦国武将で、「隙あらば反抗」という姿勢を取り続けたのです。ただその一方で、事が露見すると、いかにして処分を小さくするかということに全力を尽くします。その姿は、これぞ世渡り上手!と言ったものでした。彼のパフォーマンスが冴えたエピソードをご紹介します。