日本の歴史江戸時代

江戸庶民たちの一大フェス!「お陰参り」って一体どんなこと?

息苦しい日常から脱出!伊勢への大旅行

江戸時代を通じて「お蔭参り」と呼ばれる現象がいくつかありました。1650年、1705年、1771年、1830年とほぼ60年周期となっていることが特徴で、これらの年には数百万人がほぼ一斉に伊勢を訪れています。なぜ群衆がそのような衝動的な行動に出たのか?その理由はわかっていません。

ただ1830年の記録を見ると、阿波国徳島佐古町の手習い屋にいた子供たち20~30人が、一緒になって参宮するといって出かけたことから全国に波及したといいます。ということは、何かしらのきっかけがあった上で群集心理が働いたということになり、非常に興味深いところですね。

通常のお伊勢参りですと、町や村の中で「伊勢講」という旅費の積み立てを皆で行い、旅費が溜まったところで、くじ引きの結果、代表者が決定するというものでしたが、お蔭参りの場合はかなり様相が違いました。

子が親に、妻が夫に、奉公人が主人に断りもなく、旅費も持たずに出かけることが多かったそうで、日頃の鬱憤がたまる生活を離れて自由に旅ができ、旅費を用意しなくても、道筋の家々が食べ物や宿泊の場所を与えてくれました。

参拝者に施しをすることで功徳を積むことができ、逆に無下に断ると天罰が下るとされていましたから、貧しい参拝者であっても安心して旅に出ることができたのです。このあたり、お遍路さんに施すことを美徳とした四国の「お接待文化」と非常に似ていますよね。

また、断りもなしに勝手に旅に出たとしても、伊勢神宮のお札を持ち帰りさえすれば咎められなかったそうです。ほとんどタダで旅行ができて、怒られることもなく、しかも日本最高の神社に参拝できるわけですから、我先に行きたくなったことでしょう。

国学者の本居宣長が記録しています。

 

「宝永二年、伊勢の大御神宮に、おかげ參りとて、國々の人共、おびたゝしくまうづる事の有し、凡そ閏四月九日より、五月廿九日まで、五十日の間、すべて三百六十二萬人也」

引用元 「玉勝間」より

 

約50日間のうちに362万人(!)もの人々が伊勢神宮にやって来たというのです。当時の日本の人口は1,800万人ほどですから、約2割にあたる日本人が伊勢に集結したということになりますね。お蔭参りが日本中を巻き込んだ熱狂的ブームになっていたことがわかります。

江戸時代のツアーコンダクターたち

たくさんに人々が伊勢神宮へ詰めかけた背景の一つに、現地での案内が行き届いていたことも挙げられるでしょう。その主役となったのが御師(おんし)と呼ばれるツアーコンダクターたちでした。

御師は全国を回って様々な願い事を神様に取り次ぐことを職務としていました。信者を集めて檀家さんになってもらうためですね。当時は伊勢神宮から神札を直接もらうことができなかたため、御師が代わりに頂戴して参拝者に配布したのです。また参拝客がお伊勢参りに来た際には、自らの家に宿泊させ、伊勢神宮の参拝案内をし、御神楽を奉納しました。

また御師宅での食事はたいそう豪華なものだったらしく、煮物、なます、刺身、汁物、貝、あわび、鯛などが振舞われたそう。お酒やお菓子なども出てきたそうですよ。

最盛期には2千人もの御師がいたそうですが、明治時代になって廃止されてしまいました。とはいえ今も残る町並みや風情に、当時の活況の跡をうかがい知ることができますね。

グルメに観光、夜の歓楽街まで!現地での楽しみ方

多くの参拝客たちがやって来た伊勢神宮ですが、楽しみは参拝だけではありません。周辺の町々も大変な賑わいをみせていました。

内宮と下宮を結ぶ街道沿いにある古市という地域には、遊郭や芝居小屋、旅館などが立ち並び、伊勢随一の歓楽街として有名だったそうです。最盛期には遊女たちが1,000人もいたほど。参拝客たちは夜の大宴会をすることも大きな楽しみだったといいます。

ちなみに十返舎一九が書いた「東海道中膝栗毛」の中で、主人公の弥次さん北さんたちは伊勢神宮へろくに参拝もせず、さっそく古市へ遊びに行っていますね。そしてこんな句を詠んでいます。

 

「むくつけき客もこよひはもてるなり名はふる市のおやまなれども」

(年寄りじみてむさ苦しい客も、今夜はモテるよ。場所は「古市」の歓楽街だけれども)

 

「東海道中膝栗毛」に登場する弥次さんたちが泊まった宿「麻吉」もきちんと現存していて、現在も旅館として営業されていますね。

古市から少し離れた河崎という地域も繁栄した場所でした。かつては「お伊勢さんの台所」と謳われ、文字通り伊勢神宮界隈の食と暮らしを支えた町だったのです。

商家が軒を連ね、参拝客への物資を供給する場所でしたから賑わいは相当なもの。参宮街道の裏街道にもあたるため、みやげ物目当てや散策のために多くの人が訪れるスポットになっていました。

日本最古の紙幣が誕生したのも河崎でした。伊勢神宮を支える御師たちの経済力や信用力が大きく、個人的な手形のようなものが次第に紙幣の形態に変化していったのでしょう。それは山田羽書(やまだはがき)と呼ばれ、遠く名古屋の方にまで流通していたようです。

お蔭参りにまつわる逸話をご紹介

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それでは最後に、お蔭参りにまつわる逸話や昔話をご紹介していきましょう。どうぞごゆっくり読んでみて下さいね。

飼い主の代わりに犬がお蔭参り?【おかげ犬】

病気など様々な事情で、お伊勢参りやお蔭参りに行けない人の代わりに代参を頼むことも多かったようです。しかし頼める人がいない場合、飼い犬を代わりに行かせることが流行ったといいます。飼い主の身代わりで代参する犬を「おかげ犬」と呼んでいました。

おかげ犬は首にしめ縄を付け、お金が入った袋を下げていたので、一目見てそれだとわかったそうですね。知り合いや親戚がお蔭参りに行く場合は犬を託しますし、そうでない場合は犬だけで出発することもありました。

現在のようにクルマが走っているわけではありませんから、ケガに遭う心配はありません。おかげ犬は行く先々で優しくされました。信心深い江戸時代のことですから、お金を奪う人もおらず、危害を加える人もいません。食事や寝床の世話までしてくれたそうです。また首が重たくなるからと、わざわざ両替して軽くしてくれる優しい人まで。

江戸時代の書物「文政神異記」には、その様子がこう記録されています。

 

「阿波の国徳島のおさんという犬が、頸に銭と金子とをくくりつけて伊勢神宮にきて、古市町大和屋長兵衛の世話で無事に帰国した。」

 

また、江戸時代末期の「御蔭群参図」の中にも、犬がお祓いを受けている絵がありますね。

数多くいたであろう「おかげ犬」の中で最も有名な犬が、陸奥国須賀川(現在の福島県中通り)にいたというシロでしょうか。庄屋の市原家で飼われていた秋田犬シロは、人間の言葉を理解し、用事をこなす利発なワンコでした。

ところがある年、当主が病気のために伊勢参りができなくなり、代わりに白羽の矢が立ったのがシロだったのです。首から袋を下げたシロは伊勢神宮へ向けて出立し、家の者は皆祈るような気持ちで見送ったそう。

街道沿いの人たちは、伊勢へ向かうそんなシロの姿を見て、軒先で休息させてあげたり、水を飲ませてあげたりと気遣ってあげました。

そして2ヶ月後、無事に役目を果たしてシロが帰ってきました。主人の代わりに伊勢参りを果たした忠犬として大変な評判になったそうです。

ちなみに現在でも市原家の菩提寺である十念寺には、シロの姿をかたどった石像が安置されていて、「犬塚」と呼ばれて丁寧に弔われているそうですね。

ノミとシラミの伊勢参り

むかしむかしのこと。ある時、ノミが伊勢参りをしたいと思い立ち、一人では寂しいからとシラミに声を掛けました。

シラミは「わしは足が遅いからやめとくわ。」と答えます。

するとどうしても一緒に行きたいノミは、「いやいや、どんなに足が遅くてもいいから一緒に行こう!一緒についていくから!」と譲りません。

結局、ノミの熱意に負けたシラミは一緒に伊勢神宮へ向かうことになりました。

しかしノミはピョンピョン跳ねて速く走れますが、シラミの足の遅さは想像以上…

ついにたまりかねたノミはこう言い放ちます。

「やっぱりシラミは帰ってくれ。わし一人で伊勢神宮へ行ってくるわ!」

さしものシラミも「こればかりは約束が違うじゃないか!」と結局大ゲンカ。

怒ったノミはお尻でシラミを押しつぶし、気絶している隙にとっとと伊勢へ向かってしまったのです。

さてノミが伊勢から戻ってくると、他の虫たちはノミのやり方を徹底的に非難しました。

「ノミはひどい奴だ!あれだけ約束したのに自分だけ行ってくるとは。シラミがかわいそうじゃないか!」

あまりの自分勝手さに気付いたノミは、恥ずかしさのあまり真っ赤になってしまいました。

こうしてノミは真っ赤な体に。そしてシラミは平べったい体になったということです。

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明石則実