日本の歴史江戸時代

井原西鶴は何をした人?江戸・元禄文化を代表する人気作家の人生をわかりやすく解説

51年の生涯と遺構・没後の評価

西鶴の代表作の一つに数えられることが多い『世間胸算用』は、1692年(元禄5年)に書かれたものです。

年の瀬、金を借りた者と貸した者、双方の駆け引きを描いた町人話で、20章の短編で編成されています。江戸時代は「つけ」で物を買うのが一般的で、請求は年末にやってくる。暮れのドタバタを描き、人気となりました。

この翌年の1693年(元禄6年)、膨大な数の作品を世に送り出し精力的に創作を続けた井原西鶴は、51歳でこの世を去ります。

お墓は大阪市内の誓願寺に建てられました。

ただ、井原西鶴が亡くなった後も、遺稿集の出版は続きました。まず同年『西鶴置土産』を刊行。翌年には『西鶴織留』、その翌年に『西鶴文反古』、その3年後に『西鶴名残の友』と、どれほど作品を書き残していたのでしょうか。

江戸時代前期の文学界に大旋風を巻き起こした井原西鶴ですが、江戸中後期に入ってからも人気作家が次々と登場したせいか、没後はさほど話題になることはありませんでした。

再び注目を集めるのは明治の後半頃。200年ほど経ってからのこと。明治から大正にかけて活躍した作家・淡島寒月に見いだされ、幸田露伴や尾崎紅葉、樋口一葉など早々たる文人たちに影響を及ぼしたのだそうです。

やっぱりすごい!文学を愛し文学に愛された井原西鶴

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井原西鶴といえば『好色一代男』のイメージが強かったので、俳諧師として活動していたことを知り、少し驚きを感じました。しかも、連歌独吟を率先して行い、詠んだ句の数を競い合うような一面もあったとは、負けず嫌いな性格だったのかもしれません。次々と句を詠み、次々と物語を世に送り出した井原西鶴。文学の神様に愛されていたのかもしれません。

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