バッハの生涯
1685年、バッハはザクセン=ヴァイマル公国領のアイゼナハに生まれます。バッハ一族はルター派音楽の音楽家でした。バッハは10歳の時に父を亡くし、兄のヨハン=クリストフの家に引き取られます。その後、バッハはオルガン奏者として生計を立てました。その一方、バッハは数多くの音楽を作曲します。
バッハの生い立ちと青年期
1685年、バッハはドイツ中部の都市アイゼナハの音楽一家に8人兄弟の末っ子として生まれました。1695年、10歳の時に父を亡くしたため、すでに自立していた兄のヨハン=クリストフのもとに引き取られます。
1700年、バッハはドイツ北部のリューネブルクに移住し修道院の聖歌隊の給費生となりました。1703年、18歳になったバッハは故郷であるザクセン=ヴァイマル公国の都であるヴァイマルに戻り、宮廷楽団のバイオリニストになります。
同じ年、バッハはヴァイマル近郊のアルンシュタットの教会でオルガニストとして就職しました。
就職から2年後、バッハはドイツ北部にあるリューベックに旅行に出かけます。この時、バッハはリューベックの聖母マリア教会のオルガニストだったブクステフーデに演奏を習いました。
旅行の予定は4週間でしたが、リューベックまで400キロメートルの道のりを徒歩で行ったこともありバッハの休暇は3か月に及びます。
さすがに、不在期間が長すぎたのでアルンシュタットに戻ったバッハは叱責されてしまいました。
オルガニスト、楽団員としてキャリアを積むバッハ
1707年、バッハはヴァイマル近郊のミュールハウゼンのオルガニストに転職します。このころ、バッハはマリア=バルバラと結婚しました。生活費が今まで以上に必要となったバッハはオルガニストとしての活動だけではなく、短い曲を作曲しては少額で販売し生活の足しにします。
音楽家として名声を高めたバッハは1708年にヴァイマルの宮廷楽団楽師となり、1710年には楽師長に昇進しました。
1717年、バッハはドイツ東部のケーテン侯国から宮廷楽長のオファーを受けます。しかし、ザクセン=ヴァイマル公が辞職を許さなかったためトラブルとなりました。結局、バッハはヴァイマル公から解任されケーテン侯国の宮廷楽長となります。この時代、バッハは教会音楽以外の曲を多く作曲しました。
1720年、バッハが領主の旅行に随行中に妻が急死します。翌年、バッハはソプラノ歌手のマグダレーナと再婚しました。マグダレーナは音楽の才能があったようで、バッハの作曲を助け、作品の写譜などをしていたようです。
円熟期に入ったライプツィヒ時代のバッハ
1723年、バッハはケーテンの宮廷楽長を辞めライプツィヒの聖トーマス教会のカントルに就任します。
ライプツィヒはドイツ東部の中心都市の一つで古来、音楽が栄えた街でした。バッハがカントルに就任した聖トーマス教会の青年合唱団は1212年に創設された歴史ある合唱団です。
バッハが就任したカントルという職はキリスト教音楽の指導者のことで、教会の典礼でのオルガン演奏や聖歌隊の合唱指揮者、カンタータ(器楽付きの合唱)の演奏のときは管弦楽と合唱団の指揮などを行う教会音楽の中心となる役職でした。
ライプツィヒにいたころのバッハは円熟期で数々の名曲を作曲しています。「ヨハネ受難曲」や「マタイ受難曲」などはこの時代の作品ですね。
1749年、64歳になっていたバッハは目の病気を患い視力を失いつつありました。高名な医師を招いて手術しましたがうまくいかず、翌年に手術の後遺症などが原因で亡くなりました。
日本で有名なバッハの曲
バッハは生涯で残した曲は最低でも1000曲以上にのぼります。その中で、日本でも有名な楽曲をご紹介しましょう。中学校の音楽の教科書にも掲載されている「小フーガト短調」や「G線上のアリア」はとくに有名です。ゲームやテレビ、CMなどによく使われるのが「トッカータとフーガ」ですね。今回はこの3曲を紹介します。
小フーガト短調
「フーガト短調BWV578」は、日本では「小フーガト短調」の名で知られているオルガン曲。作曲したのはアルンシュタットでオルガニストをしていた時だと考えられていますが異説もあります。
フーガとは、最初に提示されたメインテーマを、もう一つのテーマが後を追うようにつづけ、追いかけっこをしているように展開する曲の形式。イタリア語がもとで、日本語では遁走曲などと訳しました。
ルネサンスに始まりバロック時代に本格的に発展した形式で、バッハも多数のフーガ曲を作曲しています。「小フーガト短調」はメインテーマがとてもわかりやすいので音楽の教材としても使われるのでしょう。
主題の美しさも「小フーガト短調」の魅力の一つです。学校を卒業してから改めて聞くと、曲の良さを実感できるかもしれません。