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大航海時代に発展したポルトガル海上帝国の歴史について元予備校講師がわかりやすく解説

ブラジル、東南アジア、東アジアへの進出

ポルトガルの勢力はインド以外の場所にも伸びました。1500年、ポルトガルのカブラル率いる船団が大西洋で東に流され予定の航路を逸脱します。その結果、カブラル艦隊は未知の大陸にたどり着きました。

ポルトガルは1494年のトルデシリャス条約に従い、未知の大陸をポルトガル領としました。それが、現在のブラジルです。

また、インドから東にも艦隊を派遣。1511年にはマレー海峡の重要都市であるマラッカを占領しました。ポルトガル艦隊はさらに東に進出。香料産地であるモルッカ諸島を占領します。

そして、ポルトガル艦隊は日本にも来航しました。日本人はポルトガル人やスペイン人を南蛮人と呼びます。当時の日本は戦国時代。各地の戦国大名はポルトガル人やスペイン人がもたらす最新兵器の鉄砲や火薬を競って購入。対価として銀などを支払いました。

ポルトガル海上帝国の衰退

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世界各地を支配したポルトガル海上帝国は16世紀後半になると衰退の兆しを見せます。きっかけはスペインとの合同でした。スペインとの合同は60年という長い期間に及びました。その間、イスラム勢力の反撃や新たに台頭した西欧諸国、特にイギリスやオランダによってポルトガルの権益は次々と奪われていきました。

フェリペ2世のポルトガル王即位

1578年、ポルトガル王セバスチャンがモロッコとの戦いで戦死しました。1579年に即位したエンリケは高齢で、即位一年で死去します。王家が断絶したポルトガルに対し、スペイン王フェリペ2世が相続権を主張しました。

ポルトガルの身分制議会はフェリペによるポルトガル相続を承認。スペイン・ポルトガルは同じ君主をいただく同君連合を結成することになりました。

同君連合成立の当初は、ポルトガルの議会や国のシステムは改変せず依然と同じように運営されます。そのため、当初はスペインに対する反発は少ないものでした。

しかし、次第に支配を強化しようとするスペインに対しポルトガル人は反発。やがて、ポルトガルではスペインからの独立を求める動きが活発化しました。

イスラム勢力の反撃と南蛮貿易の禁止

西アジアやインド方面において、ポルトガルはイスラム勢力による反撃にさらされていました。1515年、ポルトガルのインド総督だったアルブケルケはホルムズ海峡のホルムズ島を攻撃し占領します。しかし、1622年にサファヴィー朝のアッバース1世がホルムズ島を攻撃。ポルトガル人をホルムズから追放しました。

17世紀前半、日本では戦国時代が終わり江戸幕府による支配が確立しつつありました。江戸幕府はキリスト教を禁止し、布教と貿易をセットで行うスペイン人やポルトガル人を対日貿易から締め出します。

1639年、江戸幕府はポルトガル人の来航を禁止。ポルトガルが送ってきた貿易再開を求める使節団をとらえて処刑してしまいました。ポルトガルはインドや東アジアの貿易から徐々に締め出されていきます。

オランダの台頭とブラジルの独立

1640年、スペインによる支配に不満を募らせていたポルトガル人たちは独立を求めて蜂起しました。蜂起したポルトガル人貴族はフランスのリシュリューの後押しを受け、ジョアン4世を国王として再独立を達成します。

その一方、東アジアや東南アジアでポルトガルが持っていた拠点はイギリス・オランダに奪われていきました。特にオランダはポルトガルが領有していたマラッカモルッカ諸島を占領。ポルトガルに打撃を与えます。

しかし、ポルトガルはブラジルの開発を行うことで失ったものに匹敵する富を得ました。

1807年、ナポレオンがポルトガル本国を占領すると王家はブラジルに脱出。以後、しばらくの間、王家はブラジルに滞在しました。王家が本国に帰還したのち、ブラジルでは独立運動が高揚。ブラジルを支配していた副王のペドロを皇帝とするブラジル帝国の成立を宣言しました。最大の植民地であるブラジルを失ったポルトガルは事態の変化に対応しきれず急速に弱体化しました。

植民地をすべて失ったポルトガルの現在は

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1975年、ポルトガルは各地に所有していた植民地をすべて失いました。経済は大混乱となります。1986年にECに加盟し、経済の立て直しを目指しますがなかなかうまくいきません。ポルトガル本国だけでは経済的な再生シナリオを描くのは難しいのかもしれません。エンリケ航海王子がポルトガルの繁栄を海の向こうに求めたのもうなずける話ですね。

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