【不登校の親と子へ】ヘッセ「車輪の下」詩人が描く、大人と学校に殺されたふつうの優等生のリアル
「おお、何もかもおしまいだ」
ハンスの体調不良は、現代で言うならば自律神経失調症や抑うつ状態などと診断がつくでしょう。当時は治療法もなく、精神病患者は不治の病に近いもので、非常に疎まれていました。故郷の期待の星から、厄介者に成り下がったハンス。牧師も校長先生も「失敗作」となったハンスに目もくれず、彼は孤独のうちに「死」を考えるようになるのです。
しかし彼に転機が訪れました。フライク親方の姪っ子、エンマです。かわいらしく押しが強い少女。初恋。ハンスは生きる気力らしきものを取り戻します。しかしエンマはハンスに対し……。ふいに訪れそして去っていった恋の力で、死の誘惑から離れることはできたハンスでしたが、次に彼は「生活」というものが待っていました。ハンスは昔の同級生のつてを頼って、機械工になる進路を選びます。
神学校をドロップアウトしたインテリ、しかもスタートが遅い機械工の徒弟。彼を待っている道が前途多難なのはわかりきっていましたが、ハンスは生き生きと労働にいそしみます。同僚たちに呑み会に誘われたりも。その酒場からの帰りにある絶望的な歌をハンスは口ずさむのですが……彼を迎える最後とは。大人たちがしてしまった「手抜かり」とは、一体?
大人にとって「子ども」ってなんなの?
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ハンスの悲劇をあなたはどのように読むでしょうか。学校で悩む優等生や繊細な子どもたちは、一も二もなく胸をしめつけられるでしょう。では不登校児を抱える親が読んだら?多くの場合、他人事として処理するのではないでしょうか。だからこそ筆者は「不登校や保健室登校で悩んでいるなら、とりあえずこれ読んどけ」と本書を親に押し付けます。これはあなたの子どもの話ですよ、と言い添えて。
人間扱いされていないことを、子どもはよくわかっている
目の前で友人や知人、他人が頭痛や不調で苦しんでいたらあなたはどうしますか?もちろん「大丈夫?」と声をかけて休ませますよね。なぜそれを自分の子どもには行わないのですか?そう、ハンスに対して大人たちがいたわりをかけることがないように。
学校や家庭環境が原因で病気になる子どもは、自分が「人間ではない」ということを、心のどこかではっきりと悟っているのです。筆者が知る多くの不登校児童は絶対必ず、病気をしています。ハンスの姿を読んだ多くの「優等生」たちは自分の姿を重ね見て、そして報われないラストにどこかほっとするのです。「ああ、やっぱりこうなるよなあ」と。自分の代わりにハンスが死んでくれたような気持ちになって、ほっとします。
親や教師は子どもを人間扱いしていないことをはっきりと自覚すべきです。なぜハンスはいたわられないのでしょう?理由ははっきりしています。彼は「投資」対象であり、損失となった以上、価値のない物として損切りして捨てられるべき存在なのです。世の中の多くの子どもも同じように。
何もできないのではなくて「しない」?子どもがやるべきこととは
学校で苦しむ要因の8割は大人ですが、責任の2割は当事者の子どもです。ハンスのように、すべて親や教師から与えられるノルマだけこなす人生を、選択するのは子ども自身の自由。しかし多くの子どものそばには、フライク親方のような良心ある親しいおじちゃん・おばちゃんがいます。
ハンスを反面教師にしてください。ハンスの生き方は半分は、自業自得とも言えてしまうのです。私たちは生きなければなりません。生きるチカラを、大人は与えてはくれないのです。自分で選んでつかみとる、それが本当の人生ではないでしょうか。それが子どもにとってあまりに困難で、つらく、大人から見捨てられる可能性があるとしても、
だってその程度で見捨てる親や先生なんて、その程度ではありませんか。生き延びたければ、考えて行動するのをやめないでください。他人のせいにするのをやめましょう。私立や東大に行くべき?絶対に医者にならなきゃダメ?でも子どものあなたは、どうやって生きたいのでしょうか。毒親がいかに恐ろしいかは筆者も知っているつもりです。大人は子どもを第一には考えません。だからこそ、私たちは、親の言うとおりになる理由なんてないのです。
わたしたちはどうすればいいのか
筆者は15才のときにこの本に出会いました(その2、3年前に本当は読んでおくべきだった……)。ハンスのような教育虐待は受けていませんでしたが、条件付きの愛によって生きてきた影響やいじめも原因となり、ハンスと同じように体を壊して学校に行けなくなりました。
筆者が「車輪の下」から学んだことは3つ。1つは、親や先生は子どもを無条件に愛することは、やっぱりないんだということ(「うちはそんなことない!」という考えもまた破滅を呼ぶことは、多くの読書体験で身にしみているというかわいくないガキでした)。そして2つ目は、フライク親方のような、ちかしい親切な人に頼ればいいんだという仮定。実際に筆者の近くにはそんな大人がいてくれました。どこの子どもにもフライク親方はいてくれるのではないでしょうか。
そして3つ目。子どものやることは、子どもが責任をとればよいのです。大人が押しつける幸せは、本人にとって幸せか否かというような、そんなことで測られる事柄ではありません。ハンスが心底幸福に見えるのは、自分の意志で機械工の道を選び、自分の力で生活の力を得ようとする部分からです。親は自分の自慢にならない子どもは見捨てますが、そんなの関係ないくらいに生活の力を身につければいい。そう思えると、少し楽になりませんか?
なぜ彼らは使えない歯車として捨てられることになった?
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「車輪の下」は疑いようもなく悲劇です。毒親もの、教育虐待ものと呼べる側面もあります。抑圧された子どもはどうやって生き延びるべきなのか。でも親の期待に逆らってまで……生きてもよいのです。行政やNPOもある、近所の人や理解ある先生、サークルのお友達もいる。「車輪の下」を私は不登校の親子に「とりあえずコレ読んどけ」と叩きつけます。ハンスを反面教師にしましょう。私たちは車輪の下から立ち上がることができるのですから。
車輪の下 (集英社文庫)
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