その他の国の歴史

世界中を核戦争の危機に陥れた「キューバ危機」背景・経過・その後をわかりやすく解説

ケネディ政権による海上封鎖

1962年10月22日の夜、ケネディ大統領は全米に対しテレビ演説を行いました。その中でケネディはミサイルなどの攻撃的な兵器がキューバに持ち込まれればアメリカ全土が危機にさらされるとしてソ連がキューバにミサイルを持ち込まないよう、キューバ近海を海上封鎖すると宣言します。

ミサイルの機材などを積んだ船は既にソ連を出港していました。もし、ソ連がアメリカの海上封鎖を強引に突破しようとすれば、核戦争に発展しかねません。世界は固唾をのんで事態の推移を見守りました。

ケネディはアメリカ空軍に核ミサイルの装備を指示します。これは、ソ連が海上封鎖を突破した時はソ連を核攻撃するという意思の表れでした。ソ連艦隊も潜水艦に護衛されながら、着実にキューバ沖に迫ります。両国の緊張状態は10月26日から27日にかけてピークに達しました。

両国の必死の交渉と危機の回避

核戦争の危機が刻一刻と迫り緊張感が高まっていたころ、米ソ両国は水面下でぎりぎりの交渉を行っていました。10月26日、ソ連のフルシチョフはアメリカがキューバに侵攻しないと約束するなら、ミサイルを引き上げると持ち掛けます。

翌27日、アメリカ側は国家安全保障会議でソ連の提案を協議。ところが、27日の正午にアメリカの偵察機がキューバ上空で撃墜される事件が発生。緊張はさらに高まりました。ケネディは軍部からあがる報復攻撃の要請を拒否し慎重な姿勢を貫きます。

27日午後4時、ケネディはフルシチョフに対し提案を受け入れると決断。同日午後8時に、ケネディの回答がフルシチョフに伝えられました。翌28日、ソ連はラジオ放送でミサイルの撤去を発表。これにより、世界は核戦争の脅威から解放され、キューバ危機は去りました

キューバ危機のその後

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キューバ危機は世界を核戦争に巻き込むかもしれない大事件でした。米ソ両国はキューバ危機を教訓にホットラインを新設します。ソ連の指導者フルシチョフはアメリカに対して弱腰だとして批判され1964年に失脚しました。事件の舞台となったキューバではカストロ政権が継続。中南米の社会主義国家として存在感を維持しました。

米ソの緊張緩和とホットラインの開設

キューバ危機で核戦争の危機が現実のものとなったことを受け、米ソ両国は緊張緩和を模索します。1963年、米ソ両国は部分的核実験停止条約に調印。核軍縮の動きが加速します。さらに、米ソ両国間で直通のホットラインを開設し米ソの首脳が直接対話するチャンネルが設けられました。

また、キューバ危機後はアメリカのキューバに対する直接介入は減少します。カストロは事前の相談なくソ連がミサイル撤去を行ったことを批判しましたが、フルシチョフはカストロに自制を求めました。

ケネディ大統領の弟のロバート=ケネディ司法長官は著書『13日間 キューバ危機回顧録』の中で相手国の立場に立って交渉を進めることの重要さを強調しています。米ソはこの後も冷戦状態が続きますが、キューバ危機ほどの差し迫った核戦争の危険に見舞われることはなくなりました。

フルシチョフの失脚

キューバ危機でフルシチョフが危機の回避を選択したことは、当時のソ連の国力や核戦争の危機を考えると冷静な判断だったと評されます。しかし、ソ連国内の保守強硬派はフルシチョフがアメリカに対し譲歩しすぎたとしてフルシチョフへの批判を強めました。

1964年、フルシチョフの政治手法に反対する人々はフルシチョフ不在中にソ連共産党拡大幹部会を開催し、フルシチョフ第一書記兼首相の解任を決議します。解任理由として経済政策の失敗や1963年の大凶作を招いた責任、さらにキューバ危機での弱腰対応などがあげられました。

外堀を埋められ抵抗するすべを失っていたフルシチョフは辞職願にサインするしかありません。フルシチョフの失脚後、ソ連はブレジネフ第一書記、コスイギン首相の体制に移行します。

将来を嘱望されたケネディの暗殺

キューバ危機を乗り切ったケネディは、「ニューフロンティア」政策を推進し、貧困や差別の解消などに取り組みました。中でも、黒人差別問題に積極的に取り組み黒人に白人並みの政治的権利を認める公民権運動にも取り組みます。

対外危機を乗り切り大胆な改革に臨む若き大統領は国民的人気を博しますが、同時に保守派から強く警戒されるようになりました。1963年、ケネディ大統領はアメリカ南部のダラスを遊説中に狙撃され暗殺されます。

暗殺の実行犯としてオズワルドが逮捕されました。しかし、逮捕から二日後にオズワルド自身が殺されてしまったため、現在もケネディ暗殺事件の真相はわからないままです。キューバ危機に関わったソ連とアメリカの指導者が、事件後にともに不幸な結末に見舞われたのは何とも皮肉な話ですね。

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