南北朝時代室町時代戦国時代日本の歴史

相続争いが原因!戦国時代のきっかけ「応仁の乱」をわかりやすく解説

2-2起こってしまった応仁の乱

義政も富子も、義尚を溺愛し幸せなひと時を過ごしていました。当時の将軍家の習わしにより、義尚を側近の伊勢貞親(いせさだちか)に預けています。富子は義尚を後継ぎにするため、義視の後見人細川勝元と同等の力を持つ、山名宗全に義尚を将軍にすべく後押しを依頼したようです。そんな中、伊勢貞親が義政に「義視が、義尚様のお命を狙っているようだ」と報告しました。身の危険を感じた義視は、細川勝元を頼り邸宅に逃げ込み難を逃れたといわれています。

その時に更なる応仁の乱の原因のひとつ、畠山氏と斯波氏の家督争いが起こりました。養子とした畠山政長が京都の上御霊社に立てこもったところに、従兄弟の畠山義就が襲撃したのです。もう一方で、斯波義健の死後、養子の義敏と一族の義廉の間で後継者争いも起こってしまいました。これに、将軍継承争いと有力大名の対立が絡み合い、応仁の乱に発展したのです。

3.応仁の乱の結末は意外にあっさり

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応仁の乱は、11年も続きました。この間、京の都を火の海にし、民衆が楽しみにしているお祭りも中止になったようです。将軍の後継争い、畠山氏と斯波氏の家督争い、有力二大名の対立が絡むという大きな乱でしたが、決着がつかずというあっけない終わり方でした

3-1京の都を焼き尽くした応仁の乱

京の都を中心に、全国の大名が西軍東軍に別れて激戦を繰り広げています。西軍は足利義尚、山名宗全、畠山義就、斯波義廉が率いる約12万の軍、東軍は足利義視、細川勝元、畠山政長、斯波義敏が率いる16万の軍が戦いました。現在も、京都の祇園にある建仁寺の門には、応仁の乱でささったとされる矢の跡が残っています。

はじめのころは細川勝元率いる東軍が優勢でした。両軍の戦いぶりを静観していた義政は、劣勢となっている西軍の山名宗全に追討令を出しました。しかし、山名氏はこれでは終わりません。当時、明との交易を巡って、細川氏と対立関係にあった大内氏を仲間に引き込み、一気に勢力を取り戻しました。

政局は逆転。これまで義尚を頭としていた山名氏は、義視を将軍候補として引き入れました。これにより、富子は細川氏を頼ることになったのです。要するに、将軍候補が入れ替わる形になってしまいました。

3-2富子の念願が叶った後も続く応仁の乱

乱が始まって7年目の文明5(1473)年に、山名宗全と細川勝元が相次いでこの世を去りました。同年に、富子の念願だった息子足利義尚が9歳で元服し、第九代将軍に就任。ようやく富子の念願が叶ったのです。

でも、義尚のバックには常に富子がおり、強い影響力を示していました。有力二大名の死後も応仁の乱は続きます。東西両軍は京都のあちこちで散発的に衝突し、寺社や公家の邸宅などを焼き尽くしたのです。西陣織で有名な京都の西陣の地名がついた理由は、応仁の乱で西軍が陣を置いたことから名付けられたといわれています。

3-3応仁の乱の終焉

引退後の夫義政の飲めや歌えの荒れ振りにほとほと愛想をつかした富子は、金儲けに励みました。世の中はお金があれば大名を動かすこともでき、何でもできると踏んだからです。米相場に投資したり、商人たちの協力の下、公家や大名たちに金を貸し利子で財産を膨らませたり、京の七口の関所では「代理修復のため」と通行税を取り、そのお金を私的に流用したことでも財産が増え、巨万の富を手に入れました。この富子のお金への執着は、夫の放蕩で悪化した幕府の財政を立て直すことに繋がっています

文明9(1477)年には、応仁の乱も終息しました。後で山名氏についた大内政弘は、富子に50貫文を献上することで領土の安堵が許されました。その後、富子が朝廷に進言し、従四以下の位階を与えられたことで快く撤退しました。気を良くした大内氏から富子へ、340貫文が更に献上されています。もう一人の西軍畠山義就は、1000貫文を借り受けて両国の河内へ撤退しました。これにて、応仁の乱は勝負がつかないまま集結しました。富子の死後は、稼いだお金も何処にいったか分からずじまいだったようです。

3-4応仁の乱の後の足利家

お金を儲けることに執着した富子と、道楽にうつつを抜かす義政の夫婦仲が上手くいくことはありませんでした。義政は文明14(1482)年に慈照寺(銀閣寺)の造営に力を注ぎ完成前に移り住み、文化と芸術に没頭し余生を送りました。

将軍となった義尚は、次第に富子に反発するようになりました。富子が止めるのも聞かずに戦場へ赴き、陣に居座り指揮を執ったようです。延徳元(1489)年に、近江の鈎の陣で病死しました。翌年には義政も、銀閣寺の完成を見ないまま亡くなります。剃髪し出家した富子でしたが、その後も影響力がおとろえることはありませんでした

足利家は、応仁の乱の後、影は薄くなったものの100年は続きました。戦国大名の織田信長に滅ぼされて終焉となりました。十代将軍には、弟の義視「足利義稙(あしかがよしたね)」がなりました。室町幕府は守護大名たちの連立政権のようなものでした。わが身は自信で守る時代だったため、国の秩序が乱れ実力主義の戦国時代へと流れ込んでいきます。富子が欲を出さなければ、義尚が早くなくなることも無かったのかもしれません。また、巨万の富を得た富子の才覚があれば、将軍家が繁栄し、もしかしたら戦国時代は訪れなかったのでは?

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