室町時代戦国時代日本の歴史

『義の名将』『越後の龍』今でも愛されている「上杉謙信」の生涯と噂を解説

『毘沙門天の化身』『軍神』『越後の龍』と恐れられ、戦国武将の中でも一二を争うほどに人気のある上杉謙信。謙信の故郷でもある新潟では今でもその義を重んじていた姿が称えられていますが、果たして謙信はどんな人だったのでしょうか?今回はそんな上杉謙信の生涯やエピソードを交えて見てみましょう。

上杉謙信の生涯について

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まずは上杉謙信の生涯をご紹介。名門上杉氏の守護代であった長尾家に生まれた謙信はいったいどんな人生を歩んでいったのでしょうか?

寺に入れられた幼少期

上杉謙信は1530年越後守護代である長尾為景の末っ子として春日山城で生まれました。ちなみに幼名は虎千代と言います。守護代というのは守護大名が京都や関東で働いている間に領国を収めていたいわばお留守番みたいな役職です。

しかし、この時の越後国は長尾家が3つに分裂しており大混乱状態。さらに国人という家臣みたいな領主たちが度々裏切るというめちゃくちゃな状態でした。そんな中で虎千代は末っ子だったこともあってお寺に預けられ、そこで数々の修行を受けて仏門に触れていきます。が、しかし虎千代は仏門よりも戦略を考えるのが大好き。城の模型を作って城攻めの研究をしたり、武芸を嗜むなど仏門に入っている身とは思えないほど戦のことを考えるのが好きな子供だったそうです。もしかしたら上杉謙信のセオリーである考えや類い稀ない軍事能力はこの時に磨かれたのかもしれません。

家督相続から越後統一まで

そんな虎千代にある転機が訪れます。1942年父であった長尾為景が病没。一応家督は兄である晴景が継ぎましたが、その兄が本当に頼りなくて仕方ない。その翌年には虎千代が元服して長尾景虎(なんで上杉謙信ではなく長尾景虎なのかはまた後ほど)となるのですが、兄が頼りないせいでほかの長尾家の人から攻められるという事態が訪れます。

景虎は頼りない兄に代わっていくさに身を投じ、裏切った国人を続々と討伐。その活躍ぶりを見た家臣たちが「頼りない晴景様よりも景虎様こそ後継者にふさわしい!」として家督を景虎にしようとする動きが出てきて、最終的には晴景から家督を相続。こうして晴れて景虎は長尾家当主の座に就きました。その後、室町幕府第13代将軍足利義輝から越後守護代に任命。大義名分を得た景虎はほかの長尾家も倒し、1551年ついに越後統一を果たしました。

武田晴信との熾烈な戦い

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こうして越後を統一した上杉謙信。しかしその直後に今後の動きのきっかけとなる2つの出来事が起きます。

まずは関東管領であった上杉憲政の越後への逃亡。この頃上杉憲政は後北条家に居城を攻められ景虎を頼って越後へと逃げていました。もう一つが信濃国の大名からの援軍要請。この頃信濃は『甲斐の虎』と言われていた武田晴信(武田信玄)が侵攻しており、信濃の大名たちは景虎を頼らざるおえない状態になっていました。

援軍要請を受けて武田家との戦いを決意した政虎は1553年の第二次川中島の戦いで晴信と戦います。しかしこの戦いは上洛の予定があったためすぐに越後に撤退してしまいました。これ以降謙信と晴信は5度にもわたって川中島の戦いを行なっていくことになります。特に規模が大きかったのが第四次川中島の戦い。この戦いが川中島の戦いの代表的な戦いとも言えるでしょう。

この戦いは晴信が軍を二つに分け妻女山という山に布陣している政虎を挟み撃ちにしようとする『きつつき戦法』という作戦を実行しようとしますが、政虎は事前に察知して逆に晴信を奇襲攻撃をしかけました。結局、政虎は越後に撤退することになるのですが、この戦いによって晴信の弟や軍事であった山本勘助などが討死。武田軍は大打撃を受けて第四次川中島の戦いは終結します。

その後謙信は後北条家が席巻していた関東地方に出兵して鎌倉にて関東管領に就任。この時に名前を長尾から上杉に変えました。

織田家との戦いと最期

武田家と後北条家との戦いを繰り広げていた上杉謙信でしたが、1576年以降謙信は将軍からの依頼を受け織田家を倒すために上洛を再び行おうと兵を挙げています。謙信は破竹の勢いで越中、能登を制圧。手取川にて織田軍3万と対峙しました。謙信は織田軍の足並みがかなり乱れていることと、織田軍が手取川を渡ったところで能登が制圧されたことを知ったことを受けて一斉に追撃。2倍以上いた織田軍を撃退しました。しかし、謙信は1577年に織田家を倒す準備をしている最中に厠にて倒れてしまいます。3日後には昏睡状態となりそのまま病死してしまいました。死因は脳卒中だといわれます。

歴史にもしなんてのはありませんが、謙信があと3年生きていたら織田家はどうなっていたのでしょうか…

上杉謙信とはどんなひとだったのか?うわさやエピソードについて

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ここまでは上杉謙信の生涯を振り返っていきましたが、ここからは上杉謙信は果たしてどんな人だったのかのかということと謙信の噂についてを見ていきましょう。

名前を変えすぎ⁉上杉謙信の名前の歴史

上杉謙信は上にも書いた通りコロコロと名前を変えているんです。

名前は虎千代→景虎→政虎→輝虎→謙信の順に変わっており、さらに名字も長尾から上杉に変わっています。しかし、謙信も好き勝手に名前を変えているのではなく、輝虎の場合は将軍から『輝』をもらっていたり、長尾から上杉に変えたのも関東管領に就任したからなど結構政治的な要因が強いのです。ちなみに謙信というのは法号といってお寺に出家した時のニックネームのことで、毘沙門天の化身というぐらい仏教を信仰していたため普段でも法号の謙信と名乗っていました。ちなみに武田信玄の信玄もその法号からきています。

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