日本の歴史江戸時代

『奥の細道』とは?元禄時代に書かれた松尾芭蕉の紀行文をわかりやすく解説

東京の自宅を出発して、北関東、福島、宮城、岩手、秋田、山形と東北を巡り、日本海側を眺めながら新潟、富山、石川、福井を通って琵琶湖の北側を経由して美濃・大垣へ……。楽しいドライブになりそう!と思いきや、全部「徒歩」で移動すると言われたら、何の冗談かと笑ってしまいますよね。でもこれ、あの有名な『奥の細道』で松尾芭蕉が辿ったルートそのものなんです。今回の記事では、そんな『奥の細道』に着目。どんな内容なのか、どんなスポットを巡ったのか、松尾芭蕉とはどのような人物だったのか……。『奥の細道』についてわかりやすく解説します。

『奥の細道』とは?いつ頃、誰によって書かれたもの?

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『奥の細道』(学校教科書などでは『おくのほそ道』と表記することが多い)とは、江戸・元禄文化の時代に活躍した俳人・松尾芭蕉によって記された紀行文。旅の記録とともに、逗留地で詠んだ俳句も数多く織り込まれています。俳諧集だと思われがちですが、東北・北陸などを半年近くかけて廻りながら記した旅行記。日本の原風景を描いたものとして今もなお多くの人々から愛されています。まずはそんな『奥の細道』の基本的な情報について抑えておきましょう。

およそ2400㎞・150日間にも及ぶ壮大な旅行記

『奥の細道』とは、元禄2年(1689年)、元禄文化を代表する俳人・松尾芭蕉(まつおばしょう)が、東北や北陸を巡った際に綴った旅行記です。

移動距離:約600里(約2400㎞)、かかった日数:約150日間。鉄道も車もない時代、すべて徒歩で廻りながら、先々の様子を儚くも滋味あふれる言葉で書き記しています。

この旅行記は、芭蕉の死後、元禄15年(1702年)に出版され、広く知られることとなりました。

お供は弟子の河合曾良(かわいそら)一人。北関東を通って東北を巡り、日本海側に出て北陸を経由。美濃の大垣に到着したのは同じ年の9月初旬頃だったと伝わっています。

2400㎞を150日で歩いたとすると、単純計算で1日あたりの移動距離は16㎞。ただし途中、数日間逗留した経由地もあるため、実際の1日当たりの移動距離はもっと長かったはずです。

しかも、この時、芭蕉は46歳になっていました。

46歳という年齢、現代であればまだまだ青春真っただ中ですが、江戸初期の頃となれば話は別。しかも、道路や道しるべ、地図などが完備されていた時代ではありません。自らの足と知恵で歩き切った松尾芭蕉、相当なツワモノであったと推測できます。

多くの俳句を含んだ「古典紀行の代表的存在」

冒頭、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」の書き出しで始まる『奥の細道』。

江戸・深川の自宅に落ち着きながら、時は永遠の旅人である、と説いて旅路への思いを募らせていた松尾芭蕉は、元禄2年3月27日、隅田川沿いの住まいを引き払い、船で川を下って旅立ちます。

この旅は、平安時代末期の僧侶で歌人の西行(さいぎょう:1118年~1190年)の500回忌に寄せて行われたものなのだそうです。西行はもともと武士の身分であったと言われていますが、出家後、諸国を旅しながら多くの和歌を残したことで知られています。芭蕉は常々、西行を崇拝していました。

芭蕉は『奥の細道』の中で、訪れた土地の様子や人々との出会いと別れを綴りながら、多くの俳句を詠んでいます。

そうした俳句の中には、『奥の細道』というタイトルと同じくらい有名なものもあるほどです。

また、この旅で芭蕉が辿った道には、多くの名所・文化財が残されています。

松尾芭蕉とはどんな人?隠密だったって本当?

46歳にして2400㎞、道なき道を歩き過酷な旅を続けた松尾芭蕉。

かなりのスピードで歩いていたと推測されることから「松尾芭蕉忍者説」「『奥の細道』は地方の様子を探るための口実で、実は幕府の隠密だったのでは?」など、まことしやかにささやかれることも。

さすがに「忍者」や「隠密」は飛躍しすぎのようですが、若い頃の詳しい記録が少ないため、そのような憶測が後を絶たないようです。

一体どんな人物だったのでしょう。

松尾芭蕉とは、1644年、伊賀(現在の三重県)の松尾家に生まれます。生家は地元の有力士族の家系だったようですが、生誕の詳細についてはよくわかっていません。

18歳の頃、周辺一帯を治める藤堂家の家臣に。主人・藤堂良忠とともに京都の北村季吟(きたむらきぎん)という俳人に弟子入り。俳諧を学び始めたのです。

良忠が亡くなると、芭蕉は藤堂家を離れます。そこから数年後、師匠である北村季吟から一人前と認められ、伊賀を離れて江戸へ。俳諧に専念するようになります。芭蕉は29歳になっていました。

多くの俳人たちと交流を深めながら、句集を作ったり、俳句の批評などの仕事をして暮らしていた松尾芭蕉。しかし江戸へ出て数年が経過した頃、芭蕉は深川に住まいを移し、俳壇から退きます。

1684年、芭蕉は40歳にして、故郷・伊賀へ。『野ざらし紀行』と呼ばれる旅に出ます。母の墓参りを済ませ、多くの俳句を詠みながら綴った伊賀への旅。この旅から深川の自宅に戻って数年後の1689年に『奥の細道』へと旅立っています。

『奥の細道』の終着点・大垣に着いた後、伊勢神宮を参拝し、しばらく京都で過ごした松尾芭蕉。1691年の秋に江戸に戻りますが、1693年の夏ごろから体調を崩すようになります。

晩年は深川の自宅(芭蕉庵)で『奥の細道』の仕上げに時間を費やし、元禄7年(1694年)、弟子たちの看病を受けながら、静かに息を引き取ったのだそうです。

関東・東北・北陸・近江……『奥の細道』全行程をご紹介!

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どうやら隠密や忍者ではなかったようですが、それでもこれだけの距離を歩いた松尾芭蕉、やはり只者ではありません。江戸で俳人として悠々自適な生活を送ることもできたであろうに、なぜ旅に出ることを選んだのか……。もともとは自然豊かな伊賀の人。都会の生活に疲れてしまったのかもしれません。そんな松尾芭蕉が求めた『奥の細道』とは、どのような旅だったのでしょうか。次に、代表的な俳句をいくつかご紹介しながら『奥の細道』のルートについて解説します。

江戸・深川を出発・北上し日光~郡山~松島へ

元禄2年春、松尾芭蕉は旅に出ることを決意し、「芭蕉庵」と呼ばれる江戸の自宅を引き払って旅支度を整えます。

3月27日、出発の際に

「草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家」

という句をしたため、新しい住人への挨拶代わりに、家の柱に掛けたのだそうです。

深川を出発した芭蕉は、地域の人々に見送られながら、隅田川を船でさかのぼり、千住へ向かいます。

そこからさらに北上を続け、草加(現在の埼玉県)、古河(茨城県西端)、現在の栃木県栃木市に位置する室の八嶋などを経由して、4月1日、日光・東照宮へ。6日間ほどで江戸から日光まで辿り着いたことになります。

その後、黒羽や那須、九尾の狐の伝説が眠る殺生岩や西行の歌に縁のある遊行柳などを巡り、4月20日、白河の関に到着。4月29日には郡山を通過し、5月9日には松島(現在の宮城県宮城郡)を訪れています。

松尾芭蕉が松島の風景を前に、あまりの美しさに感動。自分では句を詠まなかった(代わりに曾良が詠んだ句を加えた)、というエピソードが残っています。

石巻から平泉~山寺・立石寺へ参拝し日本海側へ

松島を出発した松尾芭蕉は、海沿いをさらに北上して石巻へ。そこから内陸へ入り、一ノ関を経由して平泉を目指します。

5月13日に平泉到着。ここで芭蕉は、400年以上も前の奥州藤原三代(清衡、基衡、秀衡)の時代へ思いを馳せ、

「夏草や 兵つはものどもが 夢のあと」

「五月雨の 降り残してや 光堂」

という有名な句を詠んでいます。

宮城から山形への険しい山道が続く中、芭蕉は山形県の内陸部にある尾花沢という土地で旧友と再会。しばらく逗留したのち、5月27日に立石寺(りっしゃくじ)を訪れています。立石寺といえば現代の山形県屈指の観光名所。1015段もの石段を登った先にある、険しい山の頂に建つ山寺です。

芭蕉は立石寺でも

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲」

という有名な句を詠んでいます。

山寺を出て、日本海側を目指す芭蕉一行。6月3日には最上川を船で下り、

「五月雨を あつめて早し 最上川」

という句を残しています。

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