その他の国の歴史ヨーロッパ

「ドヴォルザーク」とは?「新世界より」「スラヴ舞曲集」を作曲した音楽家の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

アントニン=レオポルド=ドヴォルザーク。ドボルザークともドヴォジャークとも日本語で表記されますが、彼はスメタナとともにチェコを代表する作曲家として知られています。特に、交響曲第9番「新世界より」は映画やドラマ、CMなどでたびたび使用されるので、耳にしたかたも多いでしょう。今回はドヴォルザークの生涯とドヴォルザークの代表的な作品などについて、元予備校講師がわかりやすく解説します。

若き日のドヴォルザーク

image by PIXTA / 46914473

19世紀中ごろ、ドヴォルザークはオーストリア帝国の一部となっていたチェコ(ボヘミア)のプラハ近郊に生まれます。はじめは、生家の肉屋を次ぐ予定でしたが肉屋の修行先で音楽の才能を見出され、伯父の支援も受けつつ音楽家への道を歩み始めました。20代の中ごろ、ドヴォルザークはチェコ国民楽派の大家となるスメタナと出会い直接指導を受けます。

ドヴォルザークの誕生

1841年9月8日、ドヴォルザークはプラハの北30キロメートルに位置するネラホゼヴェスに生まれました。ドヴォルザークの生家は肉屋を営んでおり、父は息子に肉屋を継がせるつもりでいました。

6歳で地元の小学校に入学すると、8歳で教会の聖歌隊員、9歳でアマチュア楽団のヴァイオリン奏者となるなど音楽の才能を発揮します。

肉屋を継がせるつもりの父親はドヴォルザークを小学校から退学させると、肉屋修行のためにズロニチェという町にいかせました。ズロニチェでは専門学校に通います。

そこでドイツ語を教えていたリーマンはドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラ、オルガンの演奏や和声法などについて教えました。

1855年、家計が苦しくなった父親はドヴォルザークに生家の肉屋を手伝わせようとしますが、リーマンや伯父はドヴォルザークの音楽の才を惜しみ、これに反対。結局、伯父がお金を支援することでドヴォルザークは音楽への道を歩むことになりました

ドヴォルザークの学生時代

伯父の支援を受けたドヴォルザークは1857年にプラハのオルガン学校に入学します。生活は貧しいものでしたが、友人から楽譜を借りるなどして勉学に励みました。その結果、12人中2位の成績で卒業します。

ドヴォルザークの学生時代を支えた友人の一人、カレル=ベンドルは裕福な家庭の出身だったため、ドヴォルザークへの経済的支援を惜しみませんでした。

ベンドルとドヴォルザークの交友はオルガン学校を卒業してからも続き、ドヴォルザークの演奏会に対し積極的に支援します。

オルガン学校卒業後、ドヴォルザークはホテルなどでの演奏をおこなうカレル=コムザークの楽団でヴィオラ奏者となり生計を立てました

ドヴォルザークを直接指導したスメタナ

ドヴォルザークがチェコ国民劇場のヴィオラ奏者だったころ、劇場の指揮者としてスメタナがやってきました。

スメタナは1824年生まれのチェコの作曲家・指揮者です。スメタナはチェコ人の民族音楽を発展させ、チェコ国民楽派を発展させた人物でした。

日本でもっとも有名なスメタナの作品は、連作交響詩「わが祖国」の第2曲である「ヴルタヴァ」でしょう。日本ではドイツ語名の「モルダウ」として知られている楽曲です。

スメタナが国民劇場の指揮者となると、ドヴォルザークはスメタナから直接指導を受けるようになりました。

1870年、ドヴォルザークはワーグナーの音楽に触発されてオペラ「アルフレート」を書きあげます。スメタナはこのオペラを「天才の理念に満ちた」作品だと評しました。「アルフレート」はドヴォルザークの存命中には演奏されることはなく、序曲のみ1905年に、全編初演は1938年に行われました。

音楽家としての自立

image by PIXTA / 40650956

1871年、ドヴォルザークは作曲に専念するためオーケストラのヴィオラ奏者を辞めました。ドヴォルザークは個人レッスンを請け負って生計を建てつつ、作曲活動をおこないます。作曲家としての才能を高く評価したのがブラームスでした。その後、「スラヴ舞曲集」で作曲家としての名声を得たドヴォルザークはチェコだけではなく諸外国でも国際的評価を高めます。そして、スメタナとともにチェコ国民楽派の旗手と目されるようなりました。

音楽家としての成功とブラームスとの出会い

作曲に専念するようになったドヴォルザークは、徐々に音楽家としての名声を高めます。1872年、「白山の後継者たち」は学生時代の友人であるカレル=ベンドルの指揮で初演されました。

1873年、ドヴォルザークはかつて家庭教師をしていた家の娘と結婚。翌年にプラハの聖ヴォイチェフ教会のオルガン奏者となり安定した収入を得るようになりました。

1874年には交響曲第3番と第4番でオーストリア政府の奨学金を獲得します。オルガン奏者としての年収の3倍にもあたる高額の収入は彼の家計を助けたでしょう。

1877年、「モラヴィア二重奏曲集」をオーストリア政府の国家奨学金審査に提出します。この時の審査員がブラームスでした。

ブラームスは懇意にしていた出版社にドヴォルザークの作品を紹介するほど高く評価します。ブラームスとの交流はその後も続き、両者は親しくなっていきました。

出世作「スラヴ舞曲集」

ドヴォルザークの「モラヴィア二重奏曲集」の出版で成功した出版家のジムロックは、ドヴォルザークに新たな楽曲を依頼します。

ジムロックはブラームスの「ハンガリー舞曲集」に匹敵するような作品をとドヴォルザークに依頼しました。ドヴォルザークはジムロックの期待に見事にこたえます。

ドヴォルザークの「スラヴ舞曲集」は出版されるや否や大変な人気となりました。このころ、異国趣味の音楽がブームになっていて、ブラームスの「ハンガリー舞曲集」もその流れに乗ってヒットしています。

ドヴォルザークはチェコ民謡などをベースとした曲を作曲しました。スラヴ舞曲集第1集の成功で勢いがついたジムロックはドヴォルザークに続編を依頼します。

第2集はチェコ民謡だけではなく広くスラヴ地域の民謡を取り入れました。現在、特に有名なのが第2集の第2番ですね。この「スラヴ舞曲集」の成功はドヴォルザークの名をヨーロッパ中に広める役割を果たしました。

 

次のページを読む
1 2
Share: