闘将・立花道雪のひとり娘
立花誾千代は、九州の戦国武将・立花道雪(たちばなどうせつ)のひとり娘でした。父は、数々の逸話を持ち、九州に名を馳せた名将でしたが、男子に恵まれず、溺愛していた娘の誾千代に城主を譲ろうと考えたのです。そんなことから、誾千代は男勝りな少女へと成長していきました。そして、伴侶となる立花宗茂と出会うのです。
九州の名将・立花道雪
立花誾千代が生まれたのは、永禄12(1569)年のこと。九州・豊後(大分県)の戦国武将・大友宗麟(おおともそうりん)の重臣である立花道雪が父親でした。
父・道雪は、存命中は戸次鑑連(べっきあきつら)などの戸次姓を名乗っていましたが、便宜上、最も有名な名前ある立花道雪をここでは使わせていただきます。
また、彼は大友家臣の中でも突出した名将でした。雷に打たれて下半身不随となってしまいましたが、輿に乗って戦場を駆けたといいます。また、参戦した戦では負けたことがなく、無敗の名将としても有名です。
そんな道雪ですが、子供に恵まれませんでした。誾千代の前に娘がいたのですが、これが早逝し、57歳になって再びやっと授かったのが誾千代だったのです。
道雪の喜びは、私たちの想像のはるか上を行くこととなりました。
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わずか7歳で城主となる
「誾千代」の「誾」という字は、「慎み、人の話を聞く」という意味があるそうです。誾千代にもそんな女性になってほしいとの願いを込めたのでしょうか。
しかし、誾千代はそれよりももっと活発で男勝りな少女へと成長していきました。後に、大友家の記録で「娘ありて勇壮」と記されたほどですから、彼女が一般的な武家の姫君とは少し違っていたことがわかります。
というのも、道雪は、娘に男子と同等の扱いを望んだのです。
男子のいない道雪は、主君から「一族から養子を迎えて家督を継がせては?」と提案されたのですが、「ぜひとも、我が娘に我が城を継がせたいのです!」と頼み込み、主家に了承させたんですよ。
こうして、わずか7歳の時、誾千代は父から立花山城(たちばなやまじょう/福岡県福岡市)を譲り受け、少女ながら女城主となったのでした。こんなことは、前代未聞のことだったそうですよ。
立花宗茂との結婚
しかし、誾千代ひとりでは子孫を残せませんし、家も続きません。
そこで、道雪は誾千代に娶せる養子を迎えることにしたのです。
そして彼のお眼鏡にかなったのが、同僚で勇将との誉れ高い高橋紹運(たかはしじょううん)の息子でした。当時は統虎(むねとら)と言いましたが、後に改名して宗茂となります。
優秀な少年だったという宗茂を養子に出すのを、紹運は渋りましたが、そこは道雪のしつこいほどの交渉により、めでたく立花家は宗茂を迎えることとなったのです。
天正9(1581)年、誾千代と宗茂は祝言を挙げ、夫婦となりました。これで誾千代は城主を夫・宗茂に譲りましたが、それが彼女を従来の武家の女性らしくさせたかというとそうでもなかったようですよ。それは、後にご紹介する逸話からも感じ取れますので、お楽しみに。
夫との別居:不仲だったのか?
やがて父・道雪が亡くなると、誾千代の夫・宗茂は豊臣秀吉に仕えて頭角を現し、天下無双の勇将と称えられるまでになりました。しかし、新たな城に移った直後、2人は別居生活を開始したのです。これが2人の不仲を決定づけるものと言われていますが、いったい何があったのでしょうか?
名将へと成長し、出世した夫・宗茂
誾千代の夫・宗茂は、道雪のスパルタ教育と持って生まれた器量により、立派な武将へと成長を遂げました。しかし、主家である大友氏は薩摩の島津氏に大敗の連続を喫し、斜陽へと向かいます。その中で道雪が天正12(1584)年に陣没するなど、大ダメージが重なっていきました。
そこで大友氏が助けを求めたのが、天下統一へと本腰を入れ始めた豊臣秀吉だったのです。大友氏の求めに応じた秀吉は九州征伐を開始し、島津の勢いを止めたのでした。そして、その戦いの中で大きな功績を挙げた宗茂は、実力を認められて秀吉の直属の家臣となり、筑後柳河(福岡県柳川市付近)に領地を得たのです。
ただ、これによって、立花家は立花山城を出ることになりました。そして、それに反対したのが、他ならぬ誾千代だったというのです。
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誾千代、城を出て夫と別居
誾千代は、父から譲られた立花山城に並々ならぬ愛着を感じていたのでしょう。加えて、元来の男勝りで気が強い性格ですから、城を出ることに反対したのかもしれません。
とはいえ、これは秀吉の命令ですから、従わないわけにはいきません。誾千代もまた、城を出て柳川城に移ることとなりました。
ところが、誾千代はほどなくして柳川城を出て、宮永村(みやながむら)に自分の屋敷を構えたのです。つまりは、宗茂との別居でした。天正15(1587)年のことで、これが2人の不仲の証拠だと言われています。確かに、2人の間には子供がいませんでした。そしてこれから先、離婚には至りませんでしたが、2人は別居生活に入ったのです。