日本の歴史鎌倉時代

日本最初の幕府【鎌倉幕府】ってどんな幕府だった?仕組みなどを解説

北条一族の台頭【執権政治の始まり】

こうして頼朝の子孫の家系が断絶してしまった鎌倉幕府。本来なら一大事なんですけどこれをチャンスと見たのが北条政子でした。まず、北条政子は居なくなってしまった将軍を継がせるために京都から有名な公家の子供である九条頼経という人を新しく将軍にして(この将軍の事を摂家将軍と呼びます)北条政子の父である時政が執権という役職に就きました。

執権ってこの時にしか出ない役職ですけど、執権の『権』には権力や権威などの意味ではなく「誰かを助ける」という意味があるのです。(朝廷の役職の権大納言の権と同じ意味)。そのため執権をわかりやすくいうと執務を助けるという意味になるのです。まぁ、要するに将軍の代わりということですね。こうして執権についた北条時政は後鳥羽上皇が承久の乱を起こし一時期はピンチにはなったものの、これを撃破。逆に京都に六波羅探題を置いて朝廷の動きを監視するとともに西日本にも幕府の権威を強めました。さらに時政の孫である北条泰時の時代には初めての武家の法律である御成敗式目を制定。北条一族と敵対していた一族を滅ぼしていきながら法律を制定したことによって安定した政権を確立させていったのです。

執権政治から得宗専制政治へ

鎌倉幕府が出来てから60年。当時の執権であった北条時頼は北条一族のに対して反感を持っていた将軍の九条頼経をいきなり鎌倉から追放。いわゆる宮騒動という騒ぎを起こして執権の権威を増やしていきます。また、宝治合戦の時に頼経派であった三浦氏を滅ぼすと幕府に対する権限をどんどん執権に集中させていきました。また、9代執権北条貞時に霜月騒動という御家人と御内人という執権の身の回りの世話をする武士の間で騒動が起こると御家人派であった安達泰盛が滅ぼされ御内人と呼ばる人たちが幕府を支えていく立場に変わっていきます。

この頃になるとかつて御家人をまとめていた一族はみんな北条一族に滅ぼされるか、内乱によって滅んでいったかの二択になり、北条一族はその滅んだ一族の領地やその役職を独占。執権体制が崩れ、北条一族の中でもその当主である人が独裁的な政治を行なっていく得宗専制政治へと変わっていきました。

鎌倉幕府の滅亡

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こうして内乱がたくさん起こりながらも幕府は運営していましたが、1300年代に入るとその幕府の運営がうまくいかなくなっていきます。最後はどうして鎌倉幕府は滅亡していったのかを見てみましょう。

御恩と奉公の仕組みの崩壊

その第一の理由が日本初の外国からの侵略である元寇でした。元寇というとは文永の役と弘安の役をひとまとめにした出来事ですが、この元寇によってたくさんの御家人が動員されなんとか元の侵攻を阻止することができました。でも、阻止したのはいいものの、幕府からしたらこの頑張った御家人たちに御恩と奉公の仕組み通り御家人たちにご褒美を与えなくてはいけません。しかし、この元寇は今までの戦や内乱とは違い防衛戦争。勝ったところで領地はもらえません。そのため幕府は奉公してもらったにもかかわらず、その御恩が出来ない状態になる事態になってしまいました。これによって御恩によって成り立っていた御家人たちの生活は苦しくなってしまい、幕府をどんどん恨んでいくようになっていきます。

徳政令による経済の混乱

こうして陰りが見え始めてきた鎌倉幕府でしたが、そんな幕府がさらに大失態を犯してしまいます。元寇が来たのち御家人は御恩が来なかったのが原因で借金地獄に悩ませられるようになりました。こうなると幕府としてもどうにかしなければいけません。そこで幕府はお金を貸している商人に対して徳政令を発令。徳政令というのは簡単に言えば「借金をチャラにしますよ」というものでこれが発令されると御家人の借金は嘘のように消え去り御家人は救われるようになります。しかし、商人からしたら借金を踏み倒されたようなものですからたまったもんじゃありません。「こんなことになるぐらいなら二度と金なんて貸すか!」とキレた商人たちは二度と御家人に対してお金を貸さなくなってしまいました。こうなると御家人は困ってしまいます。だって、いくら借金がチャラになってもお金はありませんよね?そのため御家人の生活は余計に苦しくなってしまいました。

後醍醐天皇の挙兵と鎌倉幕府の朝廷

御恩と奉公の制度の崩壊、苦しくなる御家人の生活。こうなったら御家人は幕府なんてものを信用しなくなり幕府の権威は一気に失墜してしまいます。そんな中で野心に燃えていたのが当時の天皇である後醍醐天皇でした。

鎌倉幕府の時代の朝廷は承久の乱の後から幕府の言いなりとなってしまいます。そんな中で起こってしまったのが後嵯峨天皇による持明院統と大覚寺統の分裂でした。この分裂は後嵯峨天皇のわがままで起きてしまったことなんですが、これ以降幕府は天皇は持明院統と大覚寺統の皇族を交互に即位させるように取り決められていました。ちなみに、この分裂がのちに南北朝時代のきっかけとなりますがそれはひとまず置いといて、そんな中において後醍醐天皇は大覚寺統出身の皇族でした。後醍醐天皇は自身がつなぎの位置の天皇でしかなかったことや、幕府の干渉に嫌気がさすようになり2度も倒幕計画を立てます。でもこの倒幕計画は事前に漏れてしまい失敗。後醍醐天皇は隠岐に流されてしまい、幕府は持明院統出身の光厳天皇を即位させます。しかし、この倒幕計画が幕府崩壊の直接の原因となってしまったのです…。

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