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ローマに平和と繁栄を・五賢帝の一人「ハドリアヌス」の功績を詳しく解説!

統治の成果は上々だが元老院から煙たがられる

平和と安定のために、他国と戦うのではなく、あえて内政に目を向けたハドリアヌス。平和を維持する方法のひとつとして、行政や司法を整備しながら、元老院(共和政ローマ時代から続く政治の最高機関。貴族など身分の高い者たちによって構成される)の方々とのバランスも心掛けていたとの見方もあります。

しかし、元老院の中にもトラヤヌス政治の支持者が根強く残っており、ハドリアヌスの守勢政治体制をよく思わない者もいたようです。

その動きは、ハドリアヌスの政策が成果を挙げれば挙げるほど強くなっていったものと見られています。陰謀や暗殺などがたびたびあったとの説もありますが、激しい内乱には至らず、本当に元老院と対立関係にあったのか、実際のところ、はっきりとはわかっていません。

即位から20年近くが経過した138年、ハドリアヌスは病に倒れ、アントニヌスを後継者に指名してすぐ、この世を去ります。

生前の対立関係を裏付けるかのように、ハドリアヌスの死後しばらくの間、元老院はハドリアヌスを国家神の列に加えようとはしませんでした。これではハドリアヌスの功績は忘れ去られてしまう。ハドリアヌスの神格化を許すよう、後を継いだアントニヌス帝は懸命に元老院に働きかけ、ようやく同意を取り付けるに至った、というエピソードが残っています。

このことから、アントニヌス帝のことを「アントニヌス・ピウス(敬虔なアントニヌス)」呼ぶようになったのだそうです。

世界遺産:「ハドリアヌスの長城」

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ハドリアヌスが生前、帝国領地内をほうぼう旅して廻ったことは既に述べたとおりです。

そして、旅先で建てた建造物の中には現存するものも多く、そのうちのいくつかは、当時の文化・芸術を知る貴重な資料として世界遺産に登録されています。「ハドリアヌスの長城」はそのうちのひとつです。

場所はローマではなく、遠く離れたイギリスの地、グレートブリテン島の北部。北部のケルト人たちの侵入を防ぐ目的で、ハドリアヌス帝が命じ紀元後122年に工事が始まった長城が、現在もその雄姿を残しています。

見渡す限り続く広大な丘陵地帯に、峰を縫うように続く石垣。ブリテン島のやや細くくびれた部分を東西に分断するように、長城は真横に続いています。

完成までに10年かかったというその建造物、当時の長さはなんと118㎞。壁の高さは5m近くあったと考えられています。まるで中国の万里の長城を彷彿とさせる巨大城壁。数㎞間隔で見張り台や要塞も建造され、多くのローマ兵が守りを固めていたのだそうです。

世界遺産としては1987年、「ローマ帝国の国境線」という題目で、ドイツ国内に残る城壁跡などとともに登録されています。

世界遺産:「ハドリアヌスの別荘」

ハドリアヌスに関連する世界遺産は、もちろんイタリア国内にも存在します。

「ヴィッラ・アドリアーナ」と呼ばれるその巨大建造物は、紀元後118年より建造が始まった「ハドリアヌス帝の別荘」です。

場所はローマ郊外。広大な敷地の中に、エジプトやギリシアなどの街並みを模した建造物を多数建造。自分の理想郷を造ろうとしていたのかもしれません。単に建物を建てるだけでなく、美しい庭園、運河、池、劇場などを設け、その姿はまるで巨大テーマパークのようです。

しかし完成後まもなく、ハドリアヌスはこの世を去ってしまいます。主を失った別荘、その後もしばらくの間は造営が続けられていましたが、まもなく荒れ果て、長い間放置されてしまっていたのだそうです。

現在では、歴史を知る貴重な建造物として、世界遺産に登録されています。

広大なローマ帝国を”維持”することに専念した?賢帝ハドリアヌス

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ハドリアヌスは戦争や領地拡大にあまり積極的でなかったことから、先代のトラヤヌス帝ほど高い評価は得ていないのだそうですが、なかなかどうして、強い国を維持し続けるというのも、一種の戦いだったのではないかな、と思います。派手なことをやらないと「何もしてない、怠けてる」と言われてしまうこともあるのかもしれませんが、残されている遺構の規模を見ると、多くの人々から慕われる皇帝だったのかもしれません。映画『テルマエ・ロマエ』で市村正親さんが演じたハドリアヌス帝を思い浮かべながら、ふと、そんなことを感じました。

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