室町時代戦国時代日本の歴史

島津氏の快進撃の原点となった島津の英主「島津貴久」とは?その生涯をわかりやすく解説!

島津実久を打倒し、薩摩守護へと復帰

一時は避難した忠良と貴久ですが、これで引き下がるわけもありません。父・忠良を中心に、薩摩半島の南部から平定を進めていきます。そして、各地の豪族を味方につけると、天文5(1536)親子はついに打倒・実久の兵を挙げ、反撃を開始しました。

戦上手の父・忠良のもとで経験を積んだ貴久は、着実に実久の軍勢を撃破していきます。実久方の拠点となる城を落とし、天文8(1539)年の決戦で勝利を収めると、貴久は奪われた薩摩守護の地位を取り戻すことに成功したのでした。

実は、当主に復帰を宣言した勝久は、結局家臣たちとうまく行かず、一度は貴久らと再び結んでいました。勝久を支えてきた家臣たちは貴久を再登板させる方に傾き始めたため、結局、豊後(ぶんご/大分県)へと逃亡していたのです。やはり、勝久は当主たる器ではなかったというわけですね。

薩摩守護として正式に認められる

ところが、急速に力を付けた貴久と父・忠良に対し、これまで協力してきた豪族たちを含め、周辺の勢力が反発を始めました。また、勝久時代の家臣たちの中にもそれに加担する者が増え、なんと13もの氏族が連合し、貴久に反抗したのです。

貴久が得られたのはわずかな協力だけでしたが、そこを打開する力を持っていたのが、彼が後に「島津の英主」と称えらえた理由でした。彼は戦だけではなく交渉力も駆使すると、13氏の連合を崩すことに成功したのです。加えて、ずっと彼に反抗的だった島津実久が亡くなると、その息子・義虎(よしとら)は父の路線とは反対に、彼を守護として認めたため、脅威はかなり削減されました。

そして、天文21(1552)年、貴久は島津宗家の当主が授けられていた修理大夫(しゅりだいぶ)という官位を授けられました。加えて、一門から「貴久に一味同心(いちみどうしん/同じ心となり力を合わせる)する」という起請文が提出され、これで貴久は名実共に確固たる島津宗家の主となり、薩摩守護として認められたのでした。

三州奪還を悲願とする

貴久の次なる目標は三州を奪還することでした。三州とは、薩摩・大隅(おおすみ/鹿児島県東部)・日向(ひゅうが/宮崎県)のことです。もともと島津氏は三州を統べる主だったのですが、長い月日の間に様々なことが起き、支配が及ばなくなっていました。

薩摩をほぼ平定した貴久は、天文23(1554)年には大隅に攻め入ります。ここを守る祁答院(けどういん)氏らは、当初貴久に加勢していたのですが、彼が薩摩守護に復帰した途端に反抗するようになった勢力でした。

山頂にある城を攻めるという難しい戦いとなりましたが、貴久は息子の義久(よしひさ)・義弘(よしひろ)・歳久(としひさ)らに初陣を飾らせ、息子たちもまた父の期待に応えて活躍し、城を攻め落としたのです。

貴久の遺志を受け継ぐ息子たち

優秀な息子たちに恵まれた貴久は、永禄9(1566)年、長男の義久に家督を譲り、隠居しました。そして元亀2(1571)年、58歳で陣没します。三州統一の悲願は彼の存命中に果たされませんでしたが、息子たちは父の遺志を受け継ぎ、立派に成し遂げることとなるのです。

義久・義弘・歳久ともうひとり、家久(いえひさ)という弟を加えた「島津四兄弟」は、破竹の快進撃で次々と苦難を乗り越え、三州統一のみならず、九州全体に大きな勢力を広げていきます。これだけの才能ある4人が兄弟として反目することなく一致団結して事に当たることができたのは、ひとえに父・貴久の存在とその教育が素晴らしかったことの表れでしょう。

島津氏全盛のキーマン・島津貴久

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苦難を乗り越え、島津氏の基盤を安定させた貴久は、父・忠良と同様、「島津の英主」と称されるようになりました。戦国時代に実戦で最初に鉄砲を使用したとも伝わり、先見の明もあったと貴久がいてこそ、後の島津四兄弟という豪傑が誕生したわけです。島津氏全盛のきっかけを作った偉大な人物でした。

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