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最近問題となっている「一国二制度」とは?香港の問題についても解説!

マカオにおける一国二制度

こうして香港では一国二制度が成立しましたが、同じように一国二制度が成立したのが香港から少し西にあるマカオでした。

このマカオはポルトガルの領土でしたが、1966年の一ニ・三事件の頃から本土との一体化が進んでおり、一国二制度とはなっているものの、親中国の感情が強いものとなっています。

さらに、観光客の大半が中国人であるためら香港みたいに民主化を望む声は少なくなっているのです。

香港デモとは何なのか?変わりゆく一国二制度

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時は流れて2000年代。この時代になると香港の人々はイギリス統治時代にはあった権利を求めてデモを起こしていくようになっていきます。次は香港におけるデモについてみていきましょう。

香港独自の法律の危機

香港のデモがどうして起こっているのかについて話すには香港という場所がいかに特別扱いされているのかについて知らなければなりません。

香港は一国二制度によって中国とは違う法律を持つことが許されており、香港にはイギリスの法律を手本とした香港特別行政基本法が制定されています。

例えば、この法律のおかげで中国国内にはない言論の自由が保障されており、中国国内ではタブーとなっている1989年の天安門事件について市民が追悼することができて、なおかつ中国の政府にも抗議ができる唯一の場所となっているのです。

しかし、時代の流れが経ち、中国の領土として浸透し始めていくと中国政府は香港にも社会主義的な法律を徐々に作っていこうとし始めていくようになります。

2014年香港デモ

2014年、香港では2017年に認められるはずであった1人1票の普通選挙が認められる予定でしたが、ちゅうごの全国人民代表大会常務委員会は2014年に実質的なトップである行政長官には指名委員会の過半数の指示が必要な上、候補を2人までに絞る事に決定しました。

これによって香港で認められていた普通選挙が反故されるとして学生が一斉に蜂起。9月から12月にかけて香港では大学生を中心に授業のボイコットや真の普通選挙を認めるデモが道路占拠などを中心に勃発しました。

このデモは12週間にかけて粘り強く続けられていましたがやがて警察によって鎮圧。

しかし、雨傘運動と呼ばれるデモとなったこの事件は香港の歴史に深く刻まれる事になります。

逃亡犯条例の改正案

こうして雨傘運動が鎮圧された香港でしたが、香港ではしばらくの間小規模ながらも度々政治の変革を求める運動が相次いで起こる事になります。しかし、そのデモの中でも特に重要事項としてあげられる事になったのが2018年に起こった逃亡犯条例の改正案でした。

2018年2月17日、台湾で発生した殺人事件において香港警察が逮捕した犯人を、台湾に送り返そうとしましたが、逃亡犯条例に犯人引き渡しが適用されないことがわかり、台湾に送還することができないという事態が起こりました。

香港はこの事態を受けて香港で捕まえた犯人を他の地域に送ることができるようにする改正案を提出。しかし、この改正案が成立すると香港からしたらとんでもない事になります。

例えば香港で中国の批判運動を起こした場合、香港警察が逮捕し、そして中国本土に送ることが可能となります。そうなると一国二制度で認められてきた香港の独立性が失われる事になり、一国二制度の制度自体も揺らぐ事につながってしまうのです。こうして香港が危機に追い込まれるかもしれないと感じた香港の人々は2019年に一斉に蜂起。6月には香港警察発表で24万人を動員するほどの大規模デモにつながり、改正案の撤回を訴えかけるようになっていったのです。

大混乱状態の香港

こうして始まった大規模デモでしたが、このデモは香港政府の予想をはるかに超える規模にまで膨らみ始めデモ隊が一時期香港議会を占拠するにまで至るほどにまでなりました。

これを受けて香港政府の行政長官は逃亡犯条例の改正案の撤回を発表。香港でのデモは終結するかに見られましたが、デモを主催している人々は逃亡犯条例の改正案の撤回だけではなく、

普通選挙の実施

独立調査委員会を設置

逮捕されたデモ参加者の釈放

今回のデモを暴動認定しない

を含めた五代要求を香港政府に提示。しかし、香港政府は逃亡犯条例の改正案の撤回以外は応じない強硬姿勢を取り、香港のデモは継続して行われていく事になります。

香港政府は1967年の香港暴動以来52年ぶりとなる、戒厳令に近い権限を行政長官に与える超法規的措置の緊急状況規則条例を発動。これによって香港政府はデモ隊のマスクや覆面の着用を禁止する覆面禁止法の制定を発表しました。

しかし、アメリカは11月に香港人権・民主主義法案を全会一致で可決。これによって香港の状況を毎年アメリカの国務長官に送られければいけなくなり、米中関係にも響く状況にまで突入することになりました。

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