もし1948年に21世紀の鑑識が訪れたら
現代の鑑識技術には目を見張るものがあります。指紋照合、血液検査、そしてDNA鑑定。日に日に技術の精度が上がり、コンピュータの力もあって科学的な証拠の立証が当たり前の時代が21世紀です。しかし1948年はどうだったでしょう?終戦直後、多くが破壊された後の混乱した日本では……?
日本の司法制度で指紋採取・照合が採用されたのは1908年。紙ベースでの書類で管理され、当然コンピュータなどありません。そもそも科学的な証拠の取りようがなかった時代でした。それに「帝銀事件」は初動捜査が遅れ、多くの物証を取り逃したのです。
勢い、自白が重要視されます。そもそも、なんせ時代は「終戦直後」なのです。ちょっと前まで一般人の男性も戦場にいた時代でした。自白強要が違憲と明記されたのは1946年11月3日公布、1947年5月3日施行の日本国憲法において。平沢の逮捕が1948年8月21日。この頃の日本は、一種の異様な時期だったのです。もし現在のように平和なら、強引な自白の引き出しを警察官も行わず、平沢は証拠不十分で釈放されていたかもしれません。
死刑執行命令書に署名されなかった死刑囚、平沢貞通
法務大臣が署名する、死刑執行命令書。死刑囚の刑の執行は法務大臣が判断します。平沢の有罪判決の後、何度も法務大臣は変わりました。しかし誰1人として平沢の書類にサインをしようとはしなかったのです。事件後9年が経過した1967年、第2次佐藤内閣で法務大臣を務めた田中伊三次は、書類の中に彼の名を見つけて言いました。「これ(平沢)は冤罪だろ」。
平沢は部外者が見ても、明らかに理不尽な形で極刑の判断が下されていたのです。作家の松本清張、政治家の小宮山重四郎など多くの人が再審や恩赦、釈放を求めて運動しました。再審請求の回数、計17回。平沢の養子ら支援者が死後に行った分も含めると、合計19回にのぼります。しかしそのどれも通ることはありませんでした。
牢獄での39年間。その間ずっと、支援者たちに差し入れてもらっていた画材で絵を描き続けていた、平沢。刑は執行されないまま歳月は過ぎます。肺炎をわずらい、95歳で平沢貞通は亡くなりました。塀の外の景色を2度と見ることなく。「犯人」平沢貞通が獄死という形で世を去ったのは昭和が終わる2年前、1987年のことでした。
冤罪?それでも……永久に未来に問いかけ続ける、帝銀事件
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帝銀事件は多くの謎と課題を私たちに残しました。いえ、もしかしたら、事件は終わっていないのかもしれません。ただひとつ言えるのは、犯人が本当に平沢貞通であろうとなかろうと、このような取り調べや捜査、判決が許されるはずがないということ。現在も同じようなことが起こっているとしたら……?しかし立ち止まることは許されません。12人の死者と平沢の目が、司法への向き合い方、そして正義を、私たち未来の人間に問いかけているように感じます。