キュビズムの評価は当初……「こいつ首吊るんじゃないか」と心配されるピカソ
ピカソは古代アフリカ彫刻から学び、それまでに得た技術を駆使して『アヴィニョンの女たち』を描きあげました。スゴイだろ!と自信満々で友人に見せたピカソ。結果は、さんざん。色彩の魔術師と呼ばれた同時代の画家アンリ・マティスは、一目見るなり立腹。後にピカソとともにキュビズムの旗手となるジョルジュ・ブラックは「3度の食事が麻クズとパラフィン製になると言われるようなものだ」と言い放ちます(しかし、さすが西洋と言うべきか、スタイリッシュな悪態ですね)。
あまりにけちょんけちょんに言われるピカソに、アンリ・マティスと同じく。フォービズム派の画家アンドレ・ドランはピカソが首を吊らないか本気で心配しました。それでも「麻クズ」発言をしたブラックはすぐさま、これは実はスゴイと思い直します。ピカソとジョルジュ・ブラック、ともに二人三脚でキュビズムの発展のため精力的に活動を開始しました。
キュビズムがそれでも受け入れられたのは、そのビジュアルの新奇さと革新的な「視点」の付け方によります。「すべてを立方体(キューブ)として捉える」キュビズムは、新しい認識のあり方を示しました。しかし共同制作者の盟友ブラックは1914年に第一次世界大戦でフランス陸軍に徴兵されます。ピカソの人生と作風はヨーロッパの大戦に翻弄されましたが、共同制作の中止によってキュビズムの動きは停止しました。何をどう言われてもめげないピカソと、自分の否を認めて新しい芸術の形を突き詰めたブラック。2人の鋼メンタル画家のおかげで美術は大きく全身したんですね。
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晩年の作品はエロなポルノと言われて……
画家たちの間で盛んになったキュビズム。しかし反対派も多かったのです。1911年に大規模に開催されたキュビズムの展示会では群衆から「醜い絵」に対して罵倒が飛び交う始末。しかしピカソはこのような言葉を遺しています。
「絵画は、部屋を飾るためにつくられるのではない。画家(私)は古いもの、芸術を駄目にするものに対して絶えず闘争している」
キュビズムの領域に甘んじることなく、晩年の彼は過去の巨匠の作品を模写してさらなる高みを求めました。1968年に347点ものエロティックな裸婦の銅版画を製作。これは裸体の女性が開脚した姿を描いたもので、批評家から「エロなポルノ」と怒られます。しかしこの自らの創作をピカソは「ようやく子供らしい絵が描けるようになった」という表現で評価しました。モラルや様式の縛りを抜けて、パブロ・ピカソはただ純粋な絵という悟りに最晩年、到達したのでしょうか。
最初から最後まで、酷評と罵声がついて回ったピカソの人生。しかしどんな苦しい時勢にあっても創作をやめることは決してしませんでした。91歳でこの世を去るまで、彼は芸術家であることを止めることはしなかったのです。
無限の可能性を実現した巨人・パブロ・ピカソ
Argentina. Revista Vea y Lea – http://www.magicasruinas.com.ar/revistero/internacional/pintura-pablo-picasso.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる
さんざん芸術の既成概念を改革した挙げ句、パブロ・ピカソは1973年に世を去ります。そう、まだ大芸術家の逝去から50年程度しか経っていないのです。あらゆる技術を自分のものとし、世界の見方と表現を変革したピカソはこのような言葉を遺しています。
「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」
ピカソの絵は、ピカソの見た風景。今も彼の作品を通して天才の見た世界を私たちは追体験することができます。天才・鬼才の呼び名にふさわしい20世紀最大の画家ですね。