その他の国の歴史

世界四大文明とは何?その他の古代文明も含めてまるっと解説!

「世界四大文明」……社会科の教科書の最初のほうで習った記憶をお持ちの方も多いと思います。”四大”というインパクトある言い回しから、何となく「古代文明は4つだけ」という印象を持ってしまいがち。でも実は他の大陸でも、高度な文明がいくつも見つかっているのです。「世界四大文明の他にもすごい文明がたくさんあるぞ!でもやっぱり世界四大文明はすごいぞ!」ということで、世界四大文明を中心に様々な古代文明に目を向けてみようと思います。

人は大河のほとりに文明を築く:世界四大文明

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「世界四大文明」とは一般的に、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明を指します。原始、「四大」とは、まずこの4つの文明が起こり以後の文明はこのいずれかの流れをくむという、中国の政治家・梁啓超の考えが基礎になっているのだそうです。何はともあれ古代文明を知るには、まずこの4つの文明の歴史を理解するのが早道。どのような文明だったのか解説いたします。

メソポタミア文明

メソポタミアとはギリシャ語で「複数の河の間」という意味の言葉。現在のイラク、シリア、トルコを流れるチグリス川とユーフラテス川の間の肥沃な平野で育まれた複数の文明の総称です。

豊かな土壌は農業に適しており、先史時代から集落が点在していましたが、この地に初めて都市国家を築いたのはシュメール人であるといわれています。紀元前3000年前後、シュメール人たちは世界最古の文明といわれる多数の都市国家を作りました。

シュメール人たちは暦や楔形文字、青銅器の使用など高度な文明を生み出しますが、都市国家同士の争いが続き、紀元前2300年頃にアッカド王国に征服されてしまいます。そのアッカド王国も間もなく衰退し、紀元前19世紀頃に「目には目を、歯には歯を」のハンムラビ法典でお馴染みの古代バビロニアが台頭。しかし紀元前16世紀頃、現在のトルコのあたりにあったヒッタイト帝国がやってきて古代バビロニアも滅亡します。

強大な力を持っていたヒッタイト帝国も、紀元前12世紀頃に突如滅亡。この後、フェニキア人、ヘブライ人など交易や遊牧を生業とする民族がメソポタミアに次々とやってきます。紀元前11世紀頃になると、メソポタミアの北部で力をつけていたアッシリア帝国が勢力を拡大。メソポタミア全域を治め、その栄華は紀元前7世紀頃まで続きます。

アッシリア滅亡の後も、新バビロニア、リディア、ペルシャ、エジプトなど様々な国がメソポタミアを席捲。栄枯盛衰、肥沃な土壌を求めて数多くの勢力がメソポタミアで文明を開花させていきました。

エジプト文明

エジプト文明とは、紀元前3000年頃、エジプトを流れるナイル川流域で栄えた王国による文明です。

ナイル川とはアフリカ大陸東海岸を南北に流れる世界最長の大河。全長6695kmという巨大な川の流域はいわゆるデルタ地帯(三角州)が広がっており、豊かな水がもたらす肥沃な大地が広がっていました。ギリシアの歴史家ヘロドトスをして「エジプトはナイルの賜物」と呼ばせた土地は農地として利用され、流域にはたくさんの集落が形成されていきます。村々はやがてひとつの王国としてまとまり、古代エジプト王国が誕生したのです。

エジプトは周囲を砂漠や海に囲まれた天然の要害であったため、長らく異民族の侵入を受けずに独自の文明を築くことができたと考えられています。王を中心とした強大な国家が形成され、象形文字や太陽暦をはじめ、数学や医学、土木や測量技術などが発達しました。

特筆すべきはやはりピラミッドの建設でしょう。現存するおよそ140基のピラミッドはほぼ、紀元前2700年頃からおよそ1000年間の間に建設されたもの。数トンから数十トンにも及ぶ巨石を人力のみで積み上げ築き上げられた巨大建造物を見れば、エジプト文明がどれだけ高度な文明であったか容易に想像がつきます。

紀元前15世紀頃になると、エジプト王朝はメソポタミア方面へ徐々に領土を拡大。外へと目を向け始めます。当然のことながら、他国からの侵略に備えることとなり、以後1000年以上に渡ってアッシリアやペルシャ、ギリシャなど他国と対峙。紀元前4世紀にペルシャに征服された後、女王クレオパトラで知られるプトレマイオス朝エジプトとして復活しますが、紀元前30年にローマ帝国に滅ぼされ消滅します。

インダス文明

インダス文明は、紀元前2600年頃からおよそ800年ほどの間、現在のインド、パキスタン、アフガニスタン周辺に栄えた文明です。

インダス川はヒマラヤ山脈を水源とし、インド西北部からパキスタンを経てアラビア海に注ぐ大河。標高5000mを超える高地から、いくつかの支流を集めて流れ、周辺の大地を潤し恵みを運びながら豊かな文明を育みました。インダス川流域の中流付近から河口、アラビア海岸の広い範囲に残る300余りの遺跡群をインダス文明に数えており、中にはインダス川流域からかなり離れたものも含まれています。メソポタミア、エジプト文明と比べるとかなり広範囲にわたるところも、インダス文明の特徴のひとつです。

この地域には、紀元前7000年頃、いわゆる新石器時代と呼ばれる時代から、農耕を中心とした小さな集落があったと考えられています。しかし、そうした集落がインダス文明の中でどのような役割を果たしていたか、どのような社会が作られていたか、どういった民族による文明なのか……など、不明な点も数々。遺跡から土器や印章などが多数出土していますが、それらに刻まれた「インダス文字」と呼ばれる文字の解読がまだ完全でないことが大きな理由。地盤の関係で発掘調査が難航していることもあり、インダス文明の全容は未だ謎に包まれているのです。

ただし、遺跡はたくさん見つかっています。中でも有名なのが、パキスタンの南部に位置する「モヘンジョダロ」。比較的小規模な文明都市が点在するインダス文明の中で最大級の規模を誇る都市遺跡で、「モヘンジョダロの考古遺跡」という名前で世界遺産にも登録されています。紀元前2500年頃から紀元前1800年ごろまで栄えていたとされる都市は、幾重にも複雑に組まれた石積みによる精密な構造。いったいどんな民族がどのような社会を築いていたのか、そしてなぜ滅びたのか、多くの謎を秘めたインダス文明。今後の研究に期待が寄せられています。

黄河文明

黄河文明は、中国大陸の北部を流れる黄河流域で栄えた、アジア地域を代表する古代文明です。

長江とともに中国を代表する大河として知られる黄河は、チベットや黄土高原などを流れるいくつかの主流を束ねて渤海へと注ぐ、全長5000㎞を超える大河。流域の大地を潤し、紀元前6000年頃にはすでに農耕が始まっていたと考えられています。

少し前まで、中国の文明はまず黄河を中心とした地域で誕生し、後に南下して長江流域へ、さらに中国全土へ広がっていったものとされていました。しかし最近の研究調査で、長江の流域にも古くから農耕文化が育まれていたことがわかり、現在では、黄河と長江の両方に古代文明があったという解釈に変わりつつあります。双方をまとめて「中国文明」と表記する歴史教科書も少なくないようです。

「北京原人」と呼ばれる、20万~50万年前に生息していた化石人類が発見されたことからもわかるように、中国大陸には古くから人間が生息していたことが確認されています。やがて農耕技術が発達し、家畜を飼育するなどして次第に集落を形成。邑(ゆう)と呼ばれる村では、敷地の周囲を城壁で囲むなどひとつの社会が築かれていたことが伺えます。

黄河文明を語るうえで欠かせないものが「土器」です。紀元前5000年頃から既に、器を焼く技術が培われていたようで、時代とともに色や形状に違いが見られます。

代表的な歴史区分として挙げられるのが、紀元前4000年頃に文様が描かれた彩文土器を作り出した「仰韶(ヤンシャオ)文化」と、その後、紀元前2000年前後に黒色土器を数多く生み出した「竜山(ロンシャン)文化」です。これらの時代に身分の差が生まれ、社会が形成されていったものと考えられています。

その後も黄河・長江を中心とする各地で、土器とともに様々な文化が花開いていきました。そして紀元前17世紀頃、青銅器の製造技術が発達。夏(か)、殷(いん)と王朝が次々と誕生し、古代文明から古代王朝へと移っていきます。

4箇所以外にもある!今知っておくべき古代文明

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ここまで、世界四大文明と呼ばれる文明について解説いたしました。ただ、最初にも触れたとおり「四大」という言葉は、あくまでもひとりの中国のジャーナリストによる分類であり、上記4つの文明が人類すべての起源というわけではありません。地球上には他にもたくさん、古代文明に関連する遺跡や出土品が見つかっているのです。世界四大文明以外の古代文明の中から、代表的なものをいくつかご紹介します。

古代ギリシャ文明

ギリシアには40万年前頃から既に、ヨーロッパ地域最古の人類の生活があったと考えられています。紀元前7000年頃には農耕の技術も発達し、数々の土器が作られていました。

紀元前3000年頃にはエーゲ海の温暖な気候に恵まれた島々を中心に青銅器時代が始まり、エーゲ文明と呼ばれる文明が開化。まずクレタ島のクノッソスを中心にクレタ文明(ミノス文明)が始まります。20世紀初頭に城壁や宮殿跡など遺跡が発見され、強大な力を持つ帝国が築かれた可能性が示唆されていますが、まだ不明な点も多く、残されている文字の類の解析など、全容が明かされるのはこれから、というところです。

さらに紀元前2000年頃になると、ギリシア半島南部の地域にも、ミケーネ王国などいくつかの小国が建国されます。王国ではそれぞれ文字の文化が発達し、農業や土木事業など高い技術を持っていた可能性が。ミケーネ遺跡、トロイア遺跡などが有名で、19世紀ドイツの実業家シュリーマンが発掘調査に情熱を注いだことでも知られています。

しかし紀元前1200年ごろ、ミケーネ文明は突如として滅亡。およそ400年間の暗黒時代を経て、紀元前8世紀頃、周囲の地域から人々が移住し、ポリスと呼ばれる集落が形成されるようになります。複雑な文様が施された土器や鉄器が作られ、交易も盛んに行われていたようで、貨幣も作られていたと考えられています。

その後も南部を中心に様々な都市国家が築かれていきましたが、紀元前146年にローマに敗北。ギリシア文明はギリシア半島一帯から消滅してしまいます。

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