- 1.日本主義の父渋沢栄一の誕生から青年期まで
- 1-1子どものころから父について商業のイロハを学ぶ
- 1-2栄一は「尊王攘夷」思想の影響を受けていた
- 2.ヨーロッパへの派遣で栄一が得たものは?
- ちょっと雑学!
- 2-1精力的に西洋文明を吸収する栄一
- 2-2大政奉還後に新政府の命により帰国する栄一
- 2-3「商法会所」が大当たり!大蔵省の役人になる栄一
- 3.明治になっても人々の暮らしは豊かにならず
- 3-1民部省を辞める決意をする栄一
- 3-2不安定な国の状態に危機を迎える国立銀行
- 3-3兌換紙幣と不換紙幣
- 3-4銀行の犠牲となった小野組
- 4.実業家渋沢栄一の誕生
- 4-1多くの企業と学校の設立に関わる栄一
- 4-2渋沢栄一の晩年
- 日本資本主義の父渋沢栄一は、日本が誇る大企業の生みの親
この記事の目次
1.日本主義の父渋沢栄一の誕生から青年期まで
明治から大正にかけて急成長した時代を、大企業家として駆け抜けたのが「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)です。500以上もの企業や約600もの教育・社会事業に携わり、日本経済の先駆者となって走り抜けました。それでは、渋沢栄一の誕生からパリ万博使節団までを追ってみましょう。
1-1子どものころから父について商業のイロハを学ぶ
渋沢栄一は、天保11年2月13日(1840年3月16日)に、武蔵国榛沢郡血洗島村(現:埼玉県深谷市血洗島)の豪農の家に生まれました。父は渋沢市郎右衛門元助、母はエイといい、栄一は二人の長男です。幼少期の名前は「栄二郎」といい、栄一郎、篤太夫、篤太郎と、後に名前を変えています。
渋沢家は、藍玉の商業を営むと共に、養蚕や米、野菜作りなど農業も営んでいました。権力のある農家だったので原料の買い付けも行っており、先での実業家に必要となる商業的な才覚も幼いころから養われていたようです。藍葉の仕入れは、14歳のころから一人で行い現実的で合理的な判断力を身に付けていました。
5歳のころから読書など勉学においても理解のある家庭で育っています。四書五経や『日本外史』を学び、大川平兵衛より神道無念流の剣術も習いました。しかも、栄一の才能が認められたため、江戸幕府最後の将軍となる「一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)」に仕えることになります。
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1-2栄一は「尊王攘夷」思想の影響を受けていた
19歳の時に栄一は、従兄弟の尾高惇忠(おだかあつただ)の妹千代と結婚し、名前を栄一郎としました。結婚から3年後の文久元(1861)年に、江戸へ遊学に行きます。そして、儒学者の海保漁村(かいほぎょそん)の門下生となったのです。千葉栄次郎の北辰一刀流の道場にも入門し、剣術を学びました。しかし、ここでの交友がいけません。勤皇志士と関わりを持ってしまったのです。
勤皇志士と結びついたため、尊皇攘夷の思想に目覚めました。長州藩と連携して幕府を倒す計画まで企てていました。さすがに、これはヤバイと妻千代の兄長七郎の強い説得により思いとどまっています。でも、文久3 (1863)年に高崎城を乗っ取り、武器を手に入れた後、横浜を焼き討ちにするという恐ろしい事件には関わっていたようです。
長州藩と共に幕府を倒すことは諦めたものの、尊王攘夷の意志は固く、家族に迷惑をかけたため勘当されたということにし京に上りました。死神は栄一を嫌ったようで、京に行った際には新選組などの過激な集団に入ることはなかったようです。江戸に遊学した時からの知り合い一橋家重臣平岡円四郎(ひらおかえんしろう)の推挙により、一橋慶喜に仕えることになりました。勤王派だった栄一が、幕府に仕えるとは…。
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2.ヨーロッパへの派遣で栄一が得たものは?
慶喜に仕える栄一は、お金の管理や財政の立て直しで存在感を示していました。その功績が認められ、慶応3(1867)年、徳川慶喜の名代徳川昭武(とくがわ あきたけ)に随行しヨーロッパに派遣されています。西洋文明の発展ぶりを目の当たりにした栄一を驚愕させました。1年半の滞在中に、西洋の文明や思想に触れた栄一が得たものは大きく、日本に戻ってから花開かせています。特に、ファイナンスのシステムにおける興味は、人並みを外れていました。
ちょっと雑学!
今では日本でもだれもがコーヒーを飲んでいますよね。実は、日本で初めてコーヒーを美味しい飲み物として紹介したのも、「渋沢栄一」です。ヨーロッパに向かう船の中から詳細に記録を残しており、コーヒーのことは、「とてもおいしい。飲むと胸が爽やかになる。」と書いています。
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2-1精力的に西洋文明を吸収する栄一
西洋についてひとつでも多くのことを学ぼうとする栄一は、武士の誇りのまげをスパッと切りました。異国の力を知った栄一は、西洋文化を日本に根付かせることはもちろん、豊かな国となった経済の活性化を学び活かそうとしています。一緒に行ったものは、西洋の軍艦や大砲などに惹かれるも、経済の流れで国が豊かになって行くようすに視点を置いたのは、栄一だけだったようです。これも、幼いころから商売に携わっていた栄一だからこそかもしれませんね。
資金を貸すことで利子を取り、さらに大きな資金にするというお金の流れです。いわゆる、銀行の貸付業務のこと。このころの日本には、両替商はあったものの銀行という組織はなかったのです。そんな時、日本では幕府が崩壊し、朝廷に政権を返上する「大政奉還」が発令されました。
また、スエズ運河の建設についても興味を持ったようです。当時、ヨーロッパとアジアとの貿易には膨大な時間と費用と危険が伴っていました。しかし、地中海と航海を結ぶ運河ができれば、短時間で物資を運ぶことができ、アフリカを通ることなくアジアに行けるようになるからです。
だって、栄一がヨーロッパに到着するまでには、3ヶ月もかかっていたんですもの。しかも、栄一が目を付けたのは、どうやって運河が作られるかの他に、建設にかかる巨額な費用の捻出方法だったようです。一番の収穫は、フロリヘラルトから銀行や株式取引所、株式公債など、栄一の政治政策基本を学べたことだと思います。
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2-2大政奉還後に新政府の命により帰国する栄一
パリ滞在を続けたかった栄一ですが、15歳の徳川昭武が水戸徳川家を継ぐことになり、帰国せざるを得ませんでした。すっかり西洋にかぶれた姿で家に戻った栄一をまず襲ったのは、妻千代からの叱咤でした。手紙の写真では見ていたものの、実物を見たショックは相当なものだったようです。しかも、渡欧先で断髪した件は、周辺にも知られており千代は辛い思いをさせられていました。
静岡県の駿府ですでに蟄居していた慶喜のもとへ、ヨーロッパ滞在中の会計報告をするために訪れています。この時に、妻子を呼び慶喜に仕えることを決めました。実は、藩のお金を使って事業を起こすことを考えていたのです。藩の会計の第一人者として役人になるように勧められるも、藩の貧しい経済状態を知っていた栄一は、あえて辞退し民間から静岡藩を支える決意をしています。そして、日本初の株式会社となる「商法会所(しょうほうかいしょ)」を立ち上げました。