戦で大活躍した刀たち
さて、これまでは天下五剣について紹介していきましたが、この刀たちは秀吉や家康などの天下人の刀として所持されていました。でも、秀吉や家康ではなく普通の戦国武将はどんな刀を使っていたのでしょうか?次は戦国武将に使われた刀について見ていきましょう。
姉川で暴れまくった最強の大太刀【太郎太刀】
太郎太刀は朝倉家の家臣である真柄直隆という武将が使っていた全長221センチ・重さ4.5キロのとても一般の人では扱うことができない巨大な刀でした。時は1570年、当時敵対していた織田軍に対して朝倉家と浅井家は攻められている状態となっていました。そんな中起こってしまったのが浅井家の本拠地である小谷城にほど近い姉川で起こった姉川の戦いでした。
もちろん織田軍と朝倉・浅井軍は比べ物にならないぐらい差があり、また兵力もバカにならないほど開いていました。しかし、朝倉家の真柄直隆はこのとんでもない差を自分の腕と太郎太刀でカバーするが如く、馬に乗っている状態から織田軍の兵士をどんどんなぎ直していき、織田軍を一時期劣勢に追い込むことに成功しています。しかし、多勢に無勢真柄直隆は織田軍に討ち取られてしまい、太郎太刀は投げ捨てられてしまいました。しかし、太郎太刀はこのまま朽ちることはなく、なんと皮肉にも信長の最初の本拠地近くにある熱田神宮に奉納され今に至っています。
伊達家を護った切れ味鋭い刀【燭台切光忠】
次に紹介する燭台切光忠は備前国の刀職人であった光忠によって作られた刀であり、豊臣秀吉から伊達家の当主伊達政宗に贈られた刀だと言われています。そんな燭台切光忠ですがこの刀の名前の由来は家臣に対して政宗が激怒したて斬った時に近くにあった燭台まで斬ったことからだと言われており、政宗の短気さとこの光忠の斬れ味の良さが伝わってきますね。
その後、燭台切光忠は伊達家から水戸徳川家に伝わり、関東大震災で焼失したものの、再び焼き直して今では水戸の美術館に所蔵されています。
義元の遺志を持った刀【宗三左文字】
次に紹介する宗三左文字は南北朝時代に作られた刀だと言われており、戦国時代には三好家から武田家に、そして今川義元にも渡り、義元はこの刀を自分のお気に入りの刀として大切に扱っていたそうです。そんな宗三左文字に転機が訪れたのが1560年、なんとこの年この刀の持ち主であった今川義元が桶狭間の戦いにて討死。宗三左文字は討ち取った敵の大将である織田信長に渡り、信長はこの刀を「永禄三年五月十九日義元討捕彼所持刀」と銘打って本能寺の変まで信長の刀として愛用されました。本能寺の変の後は秀吉、そして義元の元家臣でもあった徳川家康の手にも渡り、家康は戦国時代最後の戦いである大坂の陣の時につけていたとされています。家康は戦国時代最後の戦いを義元の形見で終わらせたかったのかもしれません。
雷神である立花道雪を護った刀【雷切】
次に紹介する雷切はかつて北九州を席巻した大名である大友家の家臣であった立花道雪の愛刀です。この刀がこんな名前になったのはとある逸話があり道雪が散歩してとある木にて休憩していた時にいきなり雷が落ちてきたということがありました。それに対して道雪はとっさに愛刀である刀を抜いて雷を斬ったそうです。このことによって道雪は下半身不随にはなったものの、命に別状は無かったそうなので元々千鳥という名前であったその刀を雷切と名付けたそう。その後雷切は道雪の後継者である立花宗茂の刀となり今では立花家が治めていた柳川の美術館に所蔵されています。
後北条氏ゆかりの刀【日光一文字】
次に紹介する日光一文字は鎌倉時代に作られた刀であり日光の二荒山に保管されていた刀でした。日光に納められていたから日光という名前が付いているのですね。しかし、戦国時代に入るとこの日光一文字は一代で伊豆・相模を手に入れた北条早雲の手に渡り、その後小田原攻めにて後北条氏が滅亡するときまで後北条氏の家宝となっていました。
そして小田原攻めが始まると講和の使者として小田原城にやってきた黒田官兵衛に当時の後北条氏の当主だった北条氏政から感謝の意を込めて贈られ今では黒田家の所領だった福岡の福岡市博物館に所蔵されています。