教養歴史

【1分でわかる西洋史】古代ローマ五賢帝時代の皇帝たち

パクス・ロマーナ。イギリスの歴史学者ギボンが著作「ローマ帝国衰亡史」の中で、「人類史上最も幸福な時代」を意味して名付けた時期です。この時代の中核を担ったのが「五賢帝」と呼ばれる皇帝たち。場合によっては「五賢帝時代」とも呼ばれます。そんなにすごい皇帝が五人も続いたのでしょうか?さて、その真相はいかに。駆け足ではありますが、どんな人達だったのか確認してみましょう。

ネルウァ帝

Trajan Divi Nerva.jpg
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在位98~98年。五賢帝時代の祖とされるネルウァは、帝位についたときすでに65歳とかなりの高齢でした。世継ぎがなかった先帝・ドミティアヌスが暗殺されたのち、元老院の支持を得て即位。治世は15か月ほどと短かったのですが、ドミティアヌスの圧政と失政が目に余るものであり、新王朝を開いた祖として後の皇帝たちの尊敬を集めます。

実はネルウァにも跡継ぎはいなかったのですが、皇帝暗殺後というゴタゴタした状況下では臨時君主としてはそのほうが都合がよかった、という側面もありました。

治世

元老院の後押しで即位しただけあって、元老院メンバーに不当な弾圧を加えることはありませんでした。平和そうに聞こえますが、実際には元老院に対して強い態度に出ることができず、粛清や政争の激化を招きます。

先帝時代に弾圧されていた人々の名誉を回復させ、貧民政策にも力を入れて民衆からの支持を集めるのに成功する一方、単純なバラマキ政策だったために財政を圧迫。ドミティアヌス帝の私有財産を没収し、補てんすることでしのぎます。

唯一支持を取り付けられなかったのが近衛隊を中心とする軍隊。彼らは一時的にネルウァを軟禁状態に追いやります。ネルウァ本人と軍部で次の皇帝の候補に推挙する人物が異なったためです。ネルウァは軍に屈し、彼らの意図通りの人物を後継者に指名。事実上の退位に追い込まれ15か月の在位を経て病没します

トラヤヌス帝

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By 不明User:Bibi Saint-Pol, own work, 2007-02-08, パブリック・ドメイン, Link

在位98~117年。ネルウァの後継者として軍部により推挙されたのがトラヤヌスです。古代ローマ帝国を最大の版図まで拡大させた立役者。文武両道かつ高潔で善良な人格者としても広く知られ、後継の皇帝たちのみならず、後世のキリスト教徒からすら大絶賛をされています。

この時点でキリスト教はまだ国教として認められていなかったので、彼らからするとトラヤヌスは異教徒であるにも関わらず、というのがすごい点。没した皇帝の神格化が古代ローマの習わしですが、それを差し引いても大人気です。

外征政策

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By 英語版ウィキペディアAndrei nacuさん – en.wikipedia からコモンズに移動されました。, パブリック・ドメイン, Link

国内の情勢が安定しなかったネルウァは外に目を向けることができませんでした。しかし、軍の後ろ盾を得、かつネルヴァに引き続きドミティアヌスの暴政を否定し続けたトラヤヌスは元老院と民衆の支持も取り付け、盤石な政権を打ち立てます。

内が整えば次に目を向けるのは外。106年、頻繁に領土侵犯を繰り返すダキア王国(現在のルーマニア近辺)を征服し、属州化。晩年にはパルティアとの抗争で貿易の要所であるアルメニアを獲得(114年)。116年にはメソポタミア地域やアッシリア等にも勢力を広げます。

しかし、組み込んだばかりの属州で反乱が起きたときには病に倒れ、そのまま亡くなりました。

ハドリアヌス帝

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By 不明, パブリック・ドメイン, Link

在位117~138年。病床のトラヤヌスが死に際し後継者に指名したのがハドリアヌスです。彼はトラヤヌスの血縁者であり、また優れた手腕でトラヤヌスの遠征を支えた実力者でもありました。

しかし、即位の際に元老議員を暗殺させたとの黒いうわさも付きまというように。対外政策や後継者指名で揉めた時も粛清を以て応じています。よって元老院との関係は緊張感が伴うものでした。トラヤヌスが築いた最大版図を縮小させたこともあり、当時の市民からの評判もあまり良くなかった模様です。

内政に力を入れる

ローマの繁栄には平和が欠かせないと考えたハドリアヌスは、内政を固めることに注力します。トラヤヌスが晩年に獲得したアルメニア、メソポタミアを放棄。これは遠方の地域で起こった反乱を押さえるコストを考えた現実的判断です。一方で侵略を受けている地域には城壁を築きました。現在イングランドとスコットランドの境界付近に残っている「ハドリアヌスの長城」もそのひとつ。

また、法典の整備も行い、これは500年近く帝国で使用されることとなります。後の「ユスティニアヌス法典」の基礎にとなったのも有名です。その一方でユダヤ人の風習である割礼を禁じたことにより反乱を誘発。3年かけた鎮圧の後、彼らは離散してしまいます。

芸術への影響

内政を固めると同時に、ハドリアヌスは文化事業にも勤しみました。ローマの象徴物の一つである「パンテオン」も一度焼失した後に、再建したのはハドリアヌスです。発見されている古代ローマ神殿最大規模の「ウェヌスとローマ神殿」の設計もハドリアヌスの手によるもの。

さらに寵愛した美少年(ハドリアヌスはギリシア文化に傾倒しており、同性愛者としても有名でした)・アンティノウスが若くして事故死すると彼を神格化。あちらこちらに彫像を飾らせ、果ては星座まで作ってしまうのです。

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